2012年7月9日月曜日

追悼・畑中良輔先生

七夕の昨日、都立青山斎場にて、日本声楽界の重鎮、畑中良輔先生の「お別れの会」が開かれた。
私も、先生晩年に知遇を得て、たいへんに良くして頂いたので、この会の発起人の末席に連なった。
先生は、すばらしいバリトン歌手として、特に戦後の日本オペラの正統的な発展に大変に大きな寄与をされたばかりでなく、新国立劇場の芸術監督としても後世に残る業績を残された。そのいっぽうで、東京芸術大学の教授としては、夥しい声楽家を育て、まさに名伯楽としての名声も天下に響いている。
そればかりか、作曲家としては『花林(まるめろ)』に代表される名歌曲を数多く作曲され、日本の歌曲に豊かなレパートリーを加えられたことは特筆すべきところであろう。
さらにさらに、わが慶應義塾大学ワグネルソサエティの合唱指揮者として、半世紀を超える長きにわたって熱血的指導をされ、戦後のワグネルは畑中先生なくしてはとうてい今日の隆盛を見ることはなかったに違いない。されば、お別れの会に於て、オールワグネルの大合唱団が、タンホイザーの大行進曲を全力歌唱して、満場を感動させた。私も恥ずかしながら、これには涙を禁じ得なかった。
私自身にとって、先生はながらく、遠く仰ぎ見るだけの存在であったけれど、いつのころからか、「リンボウさん、リンボウさん」と、親しくさせていただき、青の会、水戸芸術館クリスマスコンサート、そしてこの三月の『ブル小屋ごちゃまぜコンサート』等、先生主宰の演奏会に、何度も「バリトン歌手」として呼んでくださり、わが『あんこまパン』などの曲を客演独唱する機会を与えてくださった。この『ごちゃまぜコンサート』は、先生の生涯最後の演奏会となったのであったが、そこに私も参加させて頂いたことは、一生の記念となった。
それから間もなく、五月二十四日に、先生は忽焉として白玉楼中の人となってしまわれた。まことに悲しいできごとであった。寿、実に九旬。
先生はその最晩年に至るまで、いつも湯上がりのように清潔で血色よいお顔をしておられ、ダンディぶりは常に変らなかった。そして厳しい指導でも知られたが、その指導の底には常にまた温かい心が脈打っていて、誰からも深く敬愛されたところであった。一度でも親しく先生の謦咳に接した者は、その優しいお人柄、またお茶目なユーモアのセンスなど、先生の魅力に取り憑かれてしまうと言っても過言ではなかったろう。
一言で申すならば、先生はまさに、「品格」が人間の形をしている、とそんな存在であったろうか。
先生のご冥福を祈る。合掌。