2016年1月21日木曜日

丼の美学

以前、どんぶりを蒐集しているという随筆を書いたことがあった。それを読んだテレビ制作の人が、NHK衛星放送第一で放映している『美の壺』という番組に出てくれないかと言ってきた。いやなに、私のどんぶり蒐集ってのは、とてもとても美術番組に出てお見せするようなものではなく、そこらの安物を面白がって集めているにすぎないからと、一生懸命にお断りしたのだが、「いや、その大衆性にこそどんぶりの本質があるというものですから、ぜひぜひぜひぜひ」と重ねてお願いされてしまって、しかたない、この上は恥をかきに出てみようかと、また例の物好き魂が蠢動して、とうとう正月早々に出ることになった。といっても収録は私の自宅でというので、いままで孫どものおもちゃ棚になっていたところを急遽片付けて、そこにそれらしく丼どもを並べつつ、なんとか格好をつけた。
 じっさい、私の丼コレクションは、まことに大衆的なもので、決して中島誠之助さんにお見せするようなシロモノではない。しかしながら、丼ってのは、そこらの大衆食堂で、職人衆などがガツガツと昼飯をかっこんだ、そんな場面に出てくるもので、とりすまして茶懐石などに出てくる器とは、もともと出自来歴が違い、この大衆的なたたずまい、安い価格、大量生産の産物、というところにこそ、もっとも大切な「価値」がある。いま写真でたまたま手にもっているのは、まあ幕末くらいの伊万里であるが、これはもともと大中小三つ揃いの入子鉢であった。その大中は人に進呈して、いちばん小さいのを丼がわりに手元に残したもので、もともと丼ではない。なかには、幡ヶ谷の大衆食堂コニシが店じまいをするので店先に「どうぞご自由にお持ちください」と出しておいたのを、ひとつ結縁までに頂戴したものやら、靖国神社の青空市で300円で買ってきた、正真正銘の立ち食いそば用の超安物やら、いろいろである。しかし、もともとたかが泥をひねったような茶碗をたいそうな金額でやりとりするという茶道などの世界が、あれは俗物根性というもので、私はいっこうに感心しない。それよりも、みなさまのお役に立てれば結構ですよと、ぐっとへりくだって丈夫につくられた大衆食器どんぶりのほうに、私ははるかにはるかに親密の情を覚えるのである。たまたまこの日は声楽の稽古日にあたっていたので、秘蔵のコニシ丼に、みずから調理した親子丼を盛って、我が親愛なるピアニスト五味こずえ君にご馳走したのであった。写真の棚の背後に飾ってある絵もすべて私の作品である。左から「雨上がり」(水彩画)「The Manor, Hemingford Grey」(鉛筆画)「花嵐」(パステル画)。ちなみに、放送は2月26日金曜日の七時からと聞いた。