2019年5月23日木曜日

日光学習旅行


 五月の20日と21日の一泊二日で、日光へ旅行にでかけた。これは、別になにかの仕事というわけではなく、私どもの孫で、長男のタイタスが今年十歳になったのを機会として、あまりに日本の文化や歴史のことを知らないままアメリカ人として大人になってしまうことを防ぐために、教育の旅を企画したのである。一泊二日で行けるところは距離的に限られてくるので、東京近郊では日光がもっとも好適であろうと考えた。そうして、明治初期に日本の東北の奥地まで旅行して歩いたイザベラ・バードの『Unbeaten tracks in Japan(日本奥地紀行)』の日光の章をコピーして前もっての学習課題として渡し、父親のダニエル君の協力を得て、まずは明治風の格調高く難しい英語での日光学習をさせ、その上で、20日は東照宮と日光杉並木、江連家住宅などを見学。上の写真は、有名な杉並木の日光街道で、ここを毎年の日光例幣使が通った。かの川瀬巴水もこのところの風景を描いている。東照宮は外国人観光客で賑わっていたが、やはり悪趣味なまでの装飾過多には、独特の迫力が感じられる。

 翌日は記録的な土砂降りのなか、まずは大正天皇の御座所として知られている田母澤御用邸を見学。朝一番であったこと、また土砂降りであったことから、ほかには見学者は皆無で、ゆっくりと160室もの御用邸を見学してきた。この写真は、その御用邸の内部である。もともと紀州徳川家の邸を一部移築したところに多くの増築をおこなったのがこの御用邸で、近年美しく再整備されて一般に公開されている。大正天皇は、しばしばこの御用邸に滞在されて、多くの歌を詠んでおられるが、なかなかに名歌が多く、私の愛読するところである。雨に濡れた庭には、緑の苔が美しく、また一つの見物であった。英語のガイダンスもあるので、タイタスはもっぱらその英語の説明をイヤホーンで聴きながら、真剣に見て回った。天皇というのがどういう存在であるか、そのあたりも半分日本人としてぜひ知っておいてほしいと思った所期の目的は達したかと思う。そのあと、華厳之滝、中禅寺湖を観たが、あまりにもひどい豪雨で、滝は見えたけれど、湖はなにも見えなかった。豪雨のなか、車では入れず遊歩道を歩いてでなければ行けない英国大使館の夏公邸やイタリア大使公邸などは、見学をあきらめた。前者はかのアーネスト・サトウ英国公使が造ったもので、つい最近美しく整備されて一般に公開された。バードの日光探索にはそのサトウが付き添っていろいろ案内・教示をしているので、ぜひその夏公邸を観たかったが、残念であった。これは来年、次男坊のエイサを連れて見に行くことにしよう。

2019年5月9日木曜日

大町エコノミスト村演奏会


 史上最大の十連休も終り、皆さま、どこか気抜けしているところかもしれません。
 私どもは、五月五日こどもの日に、信濃大町のエコノミスト村・・・すなわち、私も北山ドクターもそこに山荘を持っている村ですが・・・に於て、はじめて声楽演奏会を催しました。
 午後三時開演の、まあティータイムコンサートということで、曲数は十二曲ほど、時間にして一時間ちょうどの軽い演奏会でした。『夏は来ぬ』『朧月夜』『青春の城下町』『北国の春』『帰れソレントへ』などなど、毎度おなじみの曲ばかりで構成しました。
 写真は、その会場となった、村の中心、エコノミストセンター。ここ通称クラブハウスに、みんなに手伝ってもらいながら、椅子など並べ、即席の演奏会場としました。天井は高く、全体が木造の内装で、そこそこに良い響きが得られたので、楽しく歌ってきました。ピアノ伴奏は、石川美也子君。石川君は、もうだいぶ以前、私がゴールデン・スランバーズという重唱団を主宰していたときに、いつも付き合っていただいた腕利きのピアニストで、桐朋のピアノ科を卒業後、東京芸大の大学院でも学んだという人です。気さくで、明るく、そして無類に腕が利くというので、演奏でも練習でも大いに助けられました。
 おかげさまで、大変にご好評をいただき、またぜひ次回もお願いしますと、何人もの方に言っていただいたのは、演奏冥利に尽きるという思いがしたことでした。
 また、第二回も企画したいと思っています。

2019年4月30日火曜日

上田真樹個展演奏会


 ちょっと順序が逆になってしまったのだけれど、実は、モリスハウスのコンサートに先立って、去る4月13日の土曜日に、渋谷のさくらホールで、作曲家上田真樹の作品を集めて、多くのアーティストたちが集合した、「上田真樹個展コンサート」という催しがあった。上田真樹君は、私が東京芸大の教師をしていた最後の年に芸大一年に入ってきた学年・・・いわば最後の教え子の一人である。当時、私は歌曲を作る作曲家を探していたので、作曲の学生には、みな歌曲を作ってみないかと声を掛けて、なかには詩を提供したりもしたのだが、前衛的現代音楽ばかりに興味の集中している芸大作曲科では、歌曲をまともに作ろうという学生はきわめて乏しかった。上田君も、それまで歌曲などは作ったことがなかったそうであるが、非常に真面目な学生であった。そこで、彼女にも声を掛けたところ、作ってみるということになって、私はいくつかの詩を彼女に贈ったのである。すると、彼女が歌曲や合唱曲、つまり「歌」の作曲家として、きわめて非凡な、しかもとても美しいメロディーを書く才能に恵まれた人であることが、すぐに分かった。以来、私は彼女に詩を贈り、彼女は私に曲を贈ってくれて、あるいは私が主宰していたThe Golden Slumbersという混声重唱団や、重唱林組、またテノール勝又晃君と組んでやっていたDuo Amiciなどに、編曲で協力してもらうようになった。それで夥しい数の歌曲を二人で作り、または編曲を作って初演するということが度重なった。そのうち、『夢の意味』という合唱組曲の出世作を作ってたちまち世の中に知られるようになり、また『鎮魂の賦』という合唱曲で、朝日作曲賞も取った。いっぽうでまた、私は彼女にソルフェージュのレッスンを二年間に亙って受け、さらには、東京エフエムの衛星放送ミュージックバードでやっていた音楽番組『リンボウ先生の音楽晩餐会』などの「音楽取調掛」として私の右腕となって働いてももらったのだった。今ではもう合唱音楽界の売れっ子となって、とても忙しいので、いっしょに仕事をすることはほとんどなくなったが、そんなご縁があって、この演奏会でも私の詩の作品が多く演奏された。『かなしみのそうち』という朗読と音楽の組曲は、女性作曲家連盟の委嘱で作った作品で、今回これを再演するので、私は自作の詩の朗読で出演。ついでに、最後の大合唱『酒頌』(イェーツ原詩、林望訳詩)のバスパートに入ることを勧められて、まったくの泥縄で参加したのが、この写真である。合唱は人生最初のことであったが、でも非常に楽しい経験であった。上田君ありがとう。

2019年4月27日土曜日

金沢モリスハウス



 去る4月24日水曜日、金沢のモリス・ハウス(ウイリアム・モリスのレッドハウスを模した内外装の疑似的教会建築)で、今年のデュオ・ドットラーレ第一回のコンサートをやってきた。今回は、『望郷ソングス』というタイトルで、主に望郷の思いを歌った古今の歌曲を、独唱と二重唱で歌ってきた。
 このモリス・ハウスは、もともと結婚式場として使われていた建物だが、今はもっぱらこうして音楽会のホールとして使用されている。音響は理想的で、じつに歌いやすい素晴らしい会場なのであるが、残念なことに、諸般の事情によって、まもなく取り壊されると聞いて、おおいにがっかりしているところである。
 今回のプログラムは、小学唱歌や、歌謡曲なども含めて、多彩な内容で構成したのだが、私の独唱曲目は、日本の歌謡曲一曲と、英語の歌三曲であった。
  青春の城下町(遠藤実作曲、梶光男のヒット曲)
  Irish Lullaby
        Galway Bay
        Granny's Hielan' Hame
 英語の歌三曲のうち、アイルランドの歌が二曲、そして3曲めのは、スコットランドの歌で、いずれも比較的新しい叙情歌であるが、アイルランド方言やスコットランド方言を歌詩に持つ特異な曲で、しかし音楽的にはいかにもノスタルジックで美しい。
 北山先生は、皆さまおなじみの名曲、
  北国の春(これも遠藤実作曲、千昌夫の大ヒット曲)
 ならびに、イタリアの歌で、
  帰れソレントへ
  遥かなるサンタルチア
  グラナダ
 の3曲を、こちらはイタリア語で熱唱、大向こうからのブラボーを受けて盛り上がった。
 伴奏は、金沢のピアニストで、中田佳珠(かず)さん。私共の音楽仲間である。

2019年4月8日月曜日

4月の大雪注意報


 先週は、ドットラーレの練習のため、信濃大町の家に行ってきたのだが、どうしたわけか、4月2日だというのに、十数年ぶりの大寒波が襲来、安曇野インターを下りたのが午後三時、それから四時前に大町の家に到着したときは、ごらんのような真っ白の雪景色で、気温は午後四時で、すでに零下三度という寒さ。まことに震え上がった。
 この雪のため、金沢からの北山ドクター一行は来信を諦め、翌日三日に予定されていた練習は、急遽取りやめとなった。
 結局この日は、大雪注意報が大町・白馬地方に発令され、時ならぬ大雪となったが、幸いに、翌日の午後には霽れて、四日はぽかぽかの春日和となったため、春雪はたちまちに融けて、春らしい景色に変貌したのは幸いであった。結局、練習は、7日の日曜に行ったが、静かな村で楽しい練習となった。
 来たる五月五日には、村内のイベントの一つとして、クラブハウスで演奏会をやることになっていて、試しにその会場となるクラブハウスでも歌ってみたが、思っていたよりは音の響きがあって、これなら大丈夫かな、とホッと胸をなで下ろした。
 信州は、いよいよ春となり、花もそろそろ綻んで、水田には水も張られ、良い景色になってきた。これから五月まで、信州はもっとも美しい季節を迎える。

 

2019年3月31日日曜日

古稀の祝い



 きのう土曜の宵、新宿のさる寿司屋で写真のような集まりがあった。
 これは、私がはるかむかし・・・もう二十年余も昔に、上智大学の大学院で書誌学を教えたことがあった、その時に私のゼミに参加した諸君が私の古稀を祝ってくれたのである。いまもこうして和気あいあいたる雰囲気のなかで、一介の非常勤講師に過ぎなかった私の古稀に祝宴を開いてくれた、まことに嬉しい限りである。彼らは、十年前の還暦のときも、おなじように祝ってくれた。それから十年が経って、みな相応に立派になり、大学、高校、高専などの教職や研究職にあって、大きな仕事を着々と進めている。
 結局、教職というものは、そうそうお金が儲かるわけでもなく、世間的に有名になるわけでもないけれど、こうやって、何年経っても「先生、先生」と言ってくれる教え子たちがいる、それがなによりのことである。きのうは、こうして、ささやかな幸福を味わい得た良い一日となった。

2019年3月11日月曜日

クラシカルギタークラブ


 さらにさらに時を遡ると、この写真はたぶん私が大学三年のときに、慶應三田の西校舎の地下にあった学生食堂で撮影された一枚である。
 私は、大学二年の時に一回留年しているので、同期の仲間よりも卒業は一年遅くなった。で、私は大学一年のときから、クラシカルギタークラブというのに入っていて、在学中は、暇さえあればクラシックギターを弾いていたのである。
 しかるに、大学も卒業間近になると、いわゆる卒業アルバムというのの編集が始まり、その巻頭カラーグラビアに、学内風景としてのさまざまな写真が載る。たまたまこの年の編集委員に、懇意にしていた男がいて、私はこの写真を撮って載せてくれるようにと頼んだのであった。左側にいるのは、伴君といって、このクラブの代表であった。右側は渡辺君といって最後の演奏会では私と組んでマウロ・ジュリアーニの二重奏曲を演奏した仲間である。こうして、1971年の卒業アルバムの巻頭を飾ってこの写真が掲載されたのであるが、肝心の卒業生写真のところには私は出ていない。当然のことながら、落第のために、まだこのときは三年生だったからである。こうして、私は、1971年のと、翌年の1972年のと、二年間に亙って卒業アルバムに載ることになったのである。呵呵。