2019年5月9日木曜日

大町エコノミスト村演奏会


 史上最大の十連休も終り、皆さま、どこか気抜けしているところかもしれません。
 私どもは、五月五日こどもの日に、信濃大町のエコノミスト村・・・すなわち、私も北山ドクターもそこに山荘を持っている村ですが・・・に於て、はじめて声楽演奏会を催しました。
 午後三時開演の、まあティータイムコンサートということで、曲数は十二曲ほど、時間にして一時間ちょうどの軽い演奏会でした。『夏は来ぬ』『朧月夜』『青春の城下町』『北国の春』『帰れソレントへ』などなど、毎度おなじみの曲ばかりで構成しました。
 写真は、その会場となった、村の中心、エコノミストセンター。ここ通称クラブハウスに、みんなに手伝ってもらいながら、椅子など並べ、即席の演奏会場としました。天井は高く、全体が木造の内装で、そこそこに良い響きが得られたので、楽しく歌ってきました。ピアノ伴奏は、石川美也子君。石川君は、もうだいぶ以前、私がゴールデン・スランバーズという重唱団を主宰していたときに、いつも付き合っていただいた腕利きのピアニストで、桐朋のピアノ科を卒業後、東京芸大の大学院でも学んだという人です。気さくで、明るく、そして無類に腕が利くというので、演奏でも練習でも大いに助けられました。
 おかげさまで、大変にご好評をいただき、またぜひ次回もお願いしますと、何人もの方に言っていただいたのは、演奏冥利に尽きるという思いがしたことでした。
 また、第二回も企画したいと思っています。

2019年4月30日火曜日

上田真樹個展演奏会


 ちょっと順序が逆になってしまったのだけれど、実は、モリスハウスのコンサートに先立って、去る4月13日の土曜日に、渋谷のさくらホールで、作曲家上田真樹の作品を集めて、多くのアーティストたちが集合した、「上田真樹個展コンサート」という催しがあった。上田真樹君は、私が東京芸大の教師をしていた最後の年に芸大一年に入ってきた学年・・・いわば最後の教え子の一人である。当時、私は歌曲を作る作曲家を探していたので、作曲の学生には、みな歌曲を作ってみないかと声を掛けて、なかには詩を提供したりもしたのだが、前衛的現代音楽ばかりに興味の集中している芸大作曲科では、歌曲をまともに作ろうという学生はきわめて乏しかった。上田君も、それまで歌曲などは作ったことがなかったそうであるが、非常に真面目な学生であった。そこで、彼女にも声を掛けたところ、作ってみるということになって、私はいくつかの詩を彼女に贈ったのである。すると、彼女が歌曲や合唱曲、つまり「歌」の作曲家として、きわめて非凡な、しかもとても美しいメロディーを書く才能に恵まれた人であることが、すぐに分かった。以来、私は彼女に詩を贈り、彼女は私に曲を贈ってくれて、あるいは私が主宰していたThe Golden Slumbersという混声重唱団や、重唱林組、またテノール勝又晃君と組んでやっていたDuo Amiciなどに、編曲で協力してもらうようになった。それで夥しい数の歌曲を二人で作り、または編曲を作って初演するということが度重なった。そのうち、『夢の意味』という合唱組曲の出世作を作ってたちまち世の中に知られるようになり、また『鎮魂の賦』という合唱曲で、朝日作曲賞も取った。いっぽうでまた、私は彼女にソルフェージュのレッスンを二年間に亙って受け、さらには、東京エフエムの衛星放送ミュージックバードでやっていた音楽番組『リンボウ先生の音楽晩餐会』などの「音楽取調掛」として私の右腕となって働いてももらったのだった。今ではもう合唱音楽界の売れっ子となって、とても忙しいので、いっしょに仕事をすることはほとんどなくなったが、そんなご縁があって、この演奏会でも私の詩の作品が多く演奏された。『かなしみのそうち』という朗読と音楽の組曲は、女性作曲家連盟の委嘱で作った作品で、今回これを再演するので、私は自作の詩の朗読で出演。ついでに、最後の大合唱『酒頌』(イェーツ原詩、林望訳詩)のバスパートに入ることを勧められて、まったくの泥縄で参加したのが、この写真である。合唱は人生最初のことであったが、でも非常に楽しい経験であった。上田君ありがとう。

2019年4月27日土曜日

金沢モリスハウス



 去る4月24日水曜日、金沢のモリス・ハウス(ウイリアム・モリスのレッドハウスを模した内外装の疑似的教会建築)で、今年のデュオ・ドットラーレ第一回のコンサートをやってきた。今回は、『望郷ソングス』というタイトルで、主に望郷の思いを歌った古今の歌曲を、独唱と二重唱で歌ってきた。
 このモリス・ハウスは、もともと結婚式場として使われていた建物だが、今はもっぱらこうして音楽会のホールとして使用されている。音響は理想的で、じつに歌いやすい素晴らしい会場なのであるが、残念なことに、諸般の事情によって、まもなく取り壊されると聞いて、おおいにがっかりしているところである。
 今回のプログラムは、小学唱歌や、歌謡曲なども含めて、多彩な内容で構成したのだが、私の独唱曲目は、日本の歌謡曲一曲と、英語の歌三曲であった。
  青春の城下町(遠藤実作曲、梶光男のヒット曲)
  Irish Lullaby
        Galway Bay
        Granny's Hielan' Hame
 英語の歌三曲のうち、アイルランドの歌が二曲、そして3曲めのは、スコットランドの歌で、いずれも比較的新しい叙情歌であるが、アイルランド方言やスコットランド方言を歌詩に持つ特異な曲で、しかし音楽的にはいかにもノスタルジックで美しい。
 北山先生は、皆さまおなじみの名曲、
  北国の春(これも遠藤実作曲、千昌夫の大ヒット曲)
 ならびに、イタリアの歌で、
  帰れソレントへ
  遥かなるサンタルチア
  グラナダ
 の3曲を、こちらはイタリア語で熱唱、大向こうからのブラボーを受けて盛り上がった。
 伴奏は、金沢のピアニストで、中田佳珠(かず)さん。私共の音楽仲間である。

2019年4月8日月曜日

4月の大雪注意報


 先週は、ドットラーレの練習のため、信濃大町の家に行ってきたのだが、どうしたわけか、4月2日だというのに、十数年ぶりの大寒波が襲来、安曇野インターを下りたのが午後三時、それから四時前に大町の家に到着したときは、ごらんのような真っ白の雪景色で、気温は午後四時で、すでに零下三度という寒さ。まことに震え上がった。
 この雪のため、金沢からの北山ドクター一行は来信を諦め、翌日三日に予定されていた練習は、急遽取りやめとなった。
 結局この日は、大雪注意報が大町・白馬地方に発令され、時ならぬ大雪となったが、幸いに、翌日の午後には霽れて、四日はぽかぽかの春日和となったため、春雪はたちまちに融けて、春らしい景色に変貌したのは幸いであった。結局、練習は、7日の日曜に行ったが、静かな村で楽しい練習となった。
 来たる五月五日には、村内のイベントの一つとして、クラブハウスで演奏会をやることになっていて、試しにその会場となるクラブハウスでも歌ってみたが、思っていたよりは音の響きがあって、これなら大丈夫かな、とホッと胸をなで下ろした。
 信州は、いよいよ春となり、花もそろそろ綻んで、水田には水も張られ、良い景色になってきた。これから五月まで、信州はもっとも美しい季節を迎える。

 

2019年3月31日日曜日

古稀の祝い



 きのう土曜の宵、新宿のさる寿司屋で写真のような集まりがあった。
 これは、私がはるかむかし・・・もう二十年余も昔に、上智大学の大学院で書誌学を教えたことがあった、その時に私のゼミに参加した諸君が私の古稀を祝ってくれたのである。いまもこうして和気あいあいたる雰囲気のなかで、一介の非常勤講師に過ぎなかった私の古稀に祝宴を開いてくれた、まことに嬉しい限りである。彼らは、十年前の還暦のときも、おなじように祝ってくれた。それから十年が経って、みな相応に立派になり、大学、高校、高専などの教職や研究職にあって、大きな仕事を着々と進めている。
 結局、教職というものは、そうそうお金が儲かるわけでもなく、世間的に有名になるわけでもないけれど、こうやって、何年経っても「先生、先生」と言ってくれる教え子たちがいる、それがなによりのことである。きのうは、こうして、ささやかな幸福を味わい得た良い一日となった。

2019年3月11日月曜日

クラシカルギタークラブ


 さらにさらに時を遡ると、この写真はたぶん私が大学三年のときに、慶應三田の西校舎の地下にあった学生食堂で撮影された一枚である。
 私は、大学二年の時に一回留年しているので、同期の仲間よりも卒業は一年遅くなった。で、私は大学一年のときから、クラシカルギタークラブというのに入っていて、在学中は、暇さえあればクラシックギターを弾いていたのである。
 しかるに、大学も卒業間近になると、いわゆる卒業アルバムというのの編集が始まり、その巻頭カラーグラビアに、学内風景としてのさまざまな写真が載る。たまたまこの年の編集委員に、懇意にしていた男がいて、私はこの写真を撮って載せてくれるようにと頼んだのであった。左側にいるのは、伴君といって、このクラブの代表であった。右側は渡辺君といって最後の演奏会では私と組んでマウロ・ジュリアーニの二重奏曲を演奏した仲間である。こうして、1971年の卒業アルバムの巻頭を飾ってこの写真が掲載されたのであるが、肝心の卒業生写真のところには私は出ていない。当然のことながら、落第のために、まだこのときは三年生だったからである。こうして、私は、1971年のと、翌年の1972年のと、二年間に亙って卒業アルバムに載ることになったのである。呵呵。

2019年3月9日土曜日

1978年


 さらに時を遡って、この写真は、1978年の五月に、慶應義塾女子高校の教師をしていたころ、その修学旅行の引率に行った折の写真である。
 慶應女子高の教師といっても、一介の非常勤講師であって、担任などはむろん持つことなく、ただ古文と漢文を教えていたに過ぎぬ。それでも、多い年は週に四日出講していたので、まあ生徒から見れば専任の教師と同じように見えたかもしれぬ。この女子高は、いわゆる職員室(教員室)というものがなく、教師は学科ごとに別れてそれぞれの研究室に所属することになっていた。それゆえ、私は非常勤ながら、国語科研究室にちゃんとデスクを与えられて勤務していたのである。しかもなお、毎年の修学旅行には、高校三年生の京都・奈良に随行引率して行った。1978年というと、今から41年もの昔になるから、私は29歳であった。この頃は、口髭を生やしていなかったことは写真に見えるとおりだが、これは当時私は能楽の地謡方として常時舞台をつとめていた関係で、口髭などは落すようにと師匠から申し渡されていたことの結果である。
 この写真は、たぶん、京都の東急インで、早朝に生徒たちと散歩などしているところであろう。なにやら寝ぼけたような表情をしているのは、そのせいである。
 その後、さまざまな学校で教鞭を執ったが、この慶應義塾女子高での六年間が、もっとも充実して楽しい教員生活だったような感懐がある。

2019年3月7日木曜日

はるかなりヘミングフォード


 必要あって、古い写真帖を取り調べていたところ、こんな写真に行き当たった。
 これは、1992年の8月31日に、ヘミングフォード・グレイの村外れ、Great Ouse 川の岸辺での一枚である。今からもう27年前の写真である。ちょうどこの立っているところが、ボストン夫人のマナーハウスの真ん前のところで、私の背後に、その庭に入る鉄扉がある。八月の末ともなれば、イギリスは早や寒くて、こんな厚手のセーターを着ている。こういうセーターはBrenire(ブレナイア)といって、スコットランドの、まあ言わば労働着がもとになっている。このセーターは今も大切に着ているが、すこしも痛んではいない。
 1991年に『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』(ケンブリッジ大学出版)が刊行されたとのほぼ同時に『イギリスはおいしい』(平凡社)も出て、ベストセラーになったので、私は俄にイギリス関連の仕事に忙殺されるようになった。
 しかし、毎夏休みに、いつもイギリスで過ごすようになったのは、まさにこの時分で、今でもあの爽涼なイギリスの夏を心から懐かしく思う。また行ってみたいなあと思わぬ時とてもないが、実際には、もう行くことはないだろう。そう思うと、こんな写真がまた、無上に懐かしく、なんだか涙ぐましい思いさえ湧いてくる。
 嗚呼、イギリスの夏!

梅花馥郁たり



 庭の白梅が満開となった。
 この梅は、かつて小金井市の貫井南町というところに住んでいたころ、その庭でかわいがっていた白加賀という梅で、植木屋が、二の足を踏むところを、なんとか頼み倒してこの家の庭に連れてきたものである。
 それからは、日当たりが余り良くないせいか、たいして実は生らないが、何年かに一度はバケツいっぱいくらいの大きな実がなる。
 その実は、種を去って甘酸っぱいジャムに煮る。
 梅はもう一本あって、そちらは豊後梅という薄紅の花の咲く種類であるが、これとてもう樹齢四十年近いことになった。こちらも大きな実が生る。
 この白梅は、とても香りがよく、二階の部屋の窓をあけると、馥郁と香るのであるが、あいにくと、この季節は花粉がひどいので窓を開けておくことができぬ。しょうがないから、ときどきベランダに出て、その香を楽しむのである。
 小金井の里は、いま、どこもここも梅の花盛りである。

2019年2月26日火曜日

りんぼう貝


 
 いよいよ誕生日も過ぎ、夫婦そろって七十歳の春となった。
 それゆえ、その誕生日をお祝いしてくれるという名目で、娘一家と江の島で集合、春の良い一日を、のんびりと孫どもらと遊んでくらした。
 雨という天気予報は幸いに外れて、雲もない快晴となった江の島は、気温も十六度ほどになり、すこしも寒いということはなかった。
 しかし、びっくりしたのは、平日の午後だというのに、江の島が観光客でごった返していたことである。その大半は中国からの観光客とおぼしく、そこらじゅうで中国語が飛び交っていたのは、時代とは申せ、驚かずにはいられない現実である。十歳を頭に、二歳の末娘まで、四人のアメリカ孫どもはみんな元気で、運動神経抜群の末娘は、江の島のあの山のてっぺんまでスタコラサッサと歩いて登った。小さな体からすると、すばらしい運動能力である。それから、さらに頂上の灯台展望台までも歩いて登って、平然たる面持ちであったのには、ほんとうに驚かされた。それから、丘の上の芝生で駆けずり回るやら、夕方の砂浜に出て貝殻を拾うやら、孫たちにとってはまことに楽しい江の島遠足となった。
 そして駐車場に戻る途中で、総領孫息子が、この「りんぼうがい」という石畳のタイル表示を発見。へええ、こんな貝があるのか、とびっくりするやら、なにやらおめでたい気がするやらで、喜んで写真に収まったというわけである。
 このあと、片瀬海岸のレストランでアメリカ孫たちは、ステーキなどをどっさりと食べて上機嫌で帰った。
 よい春の一日であった。

2019年1月23日水曜日

ご無沙汰しました


 みなさま、たいへんにお久しぶりでございます。
 気がつけば、前回の更新から一ヶ月半ほどにもなり、2018年は終了して、新しい年になっておりましたが、新年のご挨拶も申し上げず、まことに失礼いたしました。
 はなはだ遅ればせながら、どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、新年は、いつもの如く年賀状書きに始まり、やがて孫どもが押しかけてきたりしてワヤワヤとやっているうちに松も取れ、つぎつぎに原稿の〆切りに追われたりしておりますうちに、なんと不覚にも、13日から、いま流行のインフルエンザに取っ捕まって、39度の高熱で呻吟すること数日、新薬ゾフルーザのおかげで、数日で熱は下りましたが、食欲の減退することただならず、おかげさまで、三キロほども痩せて、思わぬところでダイエットに成功いたしたましたような次第です。
 ただいまは、遅れに遅れております『(改訂新修)謹訳源氏物語』第八巻の校訂作業を進めておりまして、なんとか三月までにはこれを刊行せしめるべく、がんばっているところです。まことに弱り目に祟り目でこのインフル罹患、おかげで、また一週間ほど予定が遅延するところとなりましたことは、遺憾の極みでございます。
 どうぞ、くれぐれもこのインフル流行にはご注意くださいますよう、皆さまのご自愛を祈りおります。