2019年10月28日月曜日

湯島の聖堂


 昨日の日曜日、10月27日の午後、湯島の聖堂へ講演に出向いた。湯島の聖堂は、いわゆる昌平坂学問所(昌平黌)であるが、現存の建物は、関東大震災後に鉄筋コンクリートで再建されたもので、昔の建物が残っているわけではない。
 しかし、周囲をぐるりと回る石垣などは、きっと往古のままに違いない。
 ここには、斯文会という組織があって、研究や広報活動を担っているが、きのうはその斯文会の招きで話に出掛けたのである。

 『私の師事した二人の儒者 ーー福島正義先生と阿部隆一先生』
 
 という話をしてきた。福島先生は私の高校時代の恩師で、漢文だけを教えておられた。
 熱血漢の快男児で、剣道の達人でもあり、稚気愛すべき国粋壮士でもあり、漢詩人でもあった。その先生に高校一年のときに漢文をお教え頂いたことは、私のその後の研究行路にそこばくの影響があったと思う。阿部隆一先生は、大学院以後、書誌学を一から仕込んでいただいた恩師であるが、おっかない、けれどもこれまた愛すべき先生であった。
 その阿部先生は昭和58年の一月に易簀され、同じ年の十月に福島先生は『日本上代文学と老荘思想』という大著を世に出された。が、福島先生がいつ亡くなられたのかは、いろいろ調べてみても分からなかった。福島先生のことは、私の自伝的小説『帰らぬ日遠い昔』に詳しく書いてある。ご一読下さるとありがたい。
 

2019年10月21日月曜日

補聴器デビュー



 かねて私は右の耳が難聴で、それはたぶん少年のころに右耳を大けがしたことがあって、その外傷性の後遺症で難聴になったのではないかと推量されているのだが、その上に年齢的な聞こえにくさも加味し、だんだんと左右の耳の音程の感覚にズレを生じても来たので、この際最先進的なハイテク補聴器を誂えることにした。
 そのハイテク補聴器は、デンマーク製のワイデックスというメーカーのもので、もう二十年ほど前にもスウェーデン製だったかの耳穴挿入式の補聴器を作ったときの感じから比べると、これが天地雲泥の違い・・・というか進歩なのに驚いた。以前のはやはり違和感があって、あまり使わぬうちに破棄してしまったのだが、Bloomという会社で誂えた今回のは、詳密な聴音検査に基づいて、そのデータをすべてデジタル化してこの補聴器のチップにインストールするのである。すると、聞こえない周波数のところを、適切に補正してくれるので、まことにクリアに聞こえて、しかも音程の齟齬をまったく感じなくなったのは、大正解であった。また長年止まるということのなかった耳鳴りも、これをつけていると数時間ではっきりと軽減する感じがし、また耳管開放の症状もほぼ感じなくなった。
 これほどの効果があるとは、技術の日進月歩に一驚を喫したというわけである。
 それで今はこの小さな耳掛け式のをつけて暮らしているが、歌はほんとうに歌いやすくなったし、上の写真でもわかるように、補聴器をしていることは、ほぼ誰にも分からない。ありがたい、ありがたいと、こういうマシンを作ってくれた技術者たちに感謝しているところである。

2019年10月16日水曜日

江戸時代の銀杏


 商売柄、古い書物を常に手にしているのだが、ここに掲げたのは、『正聲集』という唐詩のアンソロジーで荻生徂徠の編述にかかる一冊。それも、舘柳湾(たち・りゅうわん)という江戸中期から後期にかけて活躍した文人の旧蔵書である。おそらく、これは柳湾の自筆の写本であろうと思われる。
 そういう本をいじっていると、ときに、ごらんのように、茶色くなった古い銀杏の葉がはらっと落ちてくることがある。
 これは、ほぼ銀杏の葉に限られるのだが、どうも虫よけというような効果が想定されていたように思われる。いずれにしても、こういうものを発見すると、二百年あまり昔に、この本を書き写し、また愛読していた先人の存在がそこはかとなく感じられて、とても懐かしい思いがする。すると、この銀杏も、もしかすると・・・というかかなりの確率で・・・柳湾の手によってここに差し挟まれたものと想像されるので、なつかしさも一入である。

2019年10月4日金曜日

デュエット練習



 またまた、大変に更新をさぼっておりまして、申しわけありません。
 実は、わが『謹訳源氏物語』の改訂新修版文庫本(祥伝社文庫)の、第十巻につき、その改訂作業と、再校の仕事に追われており、ひたすら源氏と向かい合って、捩り鉢巻きであったため、とくにご報告するようなイベントもなく、今日に至りました。幸いに、無事、第十巻も校了とすることができて、やっと一息、肩の荷をおろしたところです。
   死にもせず源氏書き終えて秋の暮  宇虚人
 そこで、これより、11月27日、雑司が谷音楽堂にて開催の『望郷SONGS』のためのデュエット等の練習に力を注ぐべく、10月2日の午後、ひさしぶりに北山ドクターとピアニストの井谷佳代さんのご来臨を仰いで、拙宅地下音楽室にて練習をいたしました。
 北山ドクターは、毎度のことながら、絶好調にて、大いに朗々と歌い上げておられましたが、私自身は、どうも耳の調子が悪いせいで、なかなか声の調子も整わず、四苦八苦しながら試行錯誤しているというところです。
 ともあれしかし、練習も無事終わり、そのあとお楽しみの夕食のスナップであります。
 今回のリンボウシェフの手料理は、
  フレンチポークの赤ワイン煮込み、煮玉子添え
  黒胡椒風味粉吹芋
  人参のグラッセ
  ブロッコリーとカリフラワーのボイル   
   カボスマヨネーズのドリップ添え
  栗と椎茸の「秋の炊き込みご飯」
  「呑む出汁とガゴメ昆布」の吸い物
 という献立にて、四人で、すっかり食べ尽くしてしまいました。
  

2019年8月13日火曜日

木漏れ日とトカゲ


 謹訳源氏物語の改訂文庫版の校訂作業も大詰めとなり、七月中はその第九巻にかかりきっていたがのだが、すっかりそれも終わって出版社に返した。あとは第十巻を残すのみとなり、目下はその仕事のために、信州の山荘、翠風居に来ている。信濃大町も暑いことは暑いが、それでも、私のいるこの高瀬渓谷沿いのエコノミスト村では暑いといってもせいぜい29度くらいにしかならない。翠風居は、ご覧のような林間の緑陰にあって、一日中木漏れ日がちらちらする程度、かんかん照りということはないので、おのずから涼しいのである。日中は多少暑いけれど、夜になれば、嘘のように涼しくなり、夜は快適な冷気のなかで睡眠を楽しめるのがなによりである。標高は800メートルくらいだが、北アルプスを源流とする高瀬渓流の冷たい水が谷一帯を冷やすので、涼しさはほぼ軽井沢に匹敵するのである。ありがたいことである。


 今朝起きて窓を開けてみたら、ウッドデッキの上でトカゲが日光浴をしていた。じっとしてまるで置物のように動かない。しっぽが鮮やかなコバルトブルーで、これはニホントカゲという在来種のもっとも普遍的なトカゲであるらしい。つやつやとして、まことに美しいトカゲである。自然は、いつも美しいなあと、しばらく眺め入った。

2019年7月25日木曜日

久しぶり『梵』の普茶料理




 ずいぶん御無沙汰をしてしまっていたが、ひとつ暑気払いという心を以て、入谷の普茶料理『梵』まで、デトックス的御馳走を食べに行った。
 梵は、いつ行っても、悠々たる時間が流れているような不思議に落ち着いたしつらいで、その清潔で高雅な佇まいは、ゆっくりと会話を楽しみ、料理を味わうのに好適である。こういうお店はあまり類例がないような気がする。しかも、お料理はすこぶるリーズナブルな価格で、その手間ひまのかかった数多い品々を頂くについて、申し訳ないような気さえするのである。
 さて、この写真の一番上は、笋羹(しゅんかん)といい、普通の懐石ならば八寸というようなものにあたる。いわば豪華なオードブルである。この一つ一つに非常な手間がかかっている。家庭ではできない味である。真ん中の写真は、刺し身に当るもので、ただし普茶は精進料理だから、生臭ものは一切無い。で、若鮎に見立てた巻湯葉、これには蓼酢が添えてある、また白身魚の薄造りに準えた薄蒟蒻も涼しい。下の写真は、これぞ夏の一品というもので、鰻豆腐という。豆腐を主とした材料を合わせて、あたかも鰻の蒲焼きのように作った遊び心満点の一品であるが、じっさいちょっと鰻めいた味わいがある。この品は、『豆腐百珍』の続編にざっとした作り方が出ているが、それよりは、この梵の作り方のほうが手が込んでいる。味もきっとこちらのほうが本家を凌駕するにちがいない。
 というわけで、頗る満足の一夕でありました。
 

2019年7月8日月曜日

練習のあとには






 七月三日の日は、北山ドクターを金沢から迎えて、井谷佳代さんの伴奏で、アンサンブルを中心とした練習に励んだ。
 秋の11月27日のドットラーレのコンサートは、先日金沢のモリスハウスで開催した『望郷ソングス』の東京版で、曲目は少しく減らして、そのかわりにコンサート・トークにもう少し時間を用意しようということになった。ただいま、そのチラシなどをデザイン作業中であるが、会場は雑司が谷音楽堂、非常に響きのよいサロンなので、歌う私たちが楽しみにしているところである。
 さて、この練習のあとのお楽しみは、不肖リンボウシェフの手料理による夕食会であるが、今回は、いろいろ考えた結果、
 夏野菜と肉味噌の冷やし饂飩
 豆腐と蓮根の擂り流し汁
と、まことに質素ながら、季節柄の献立とした。肉味噌は、鶏挽肉、それに夏野菜として、焼き茄子、茗荷、オクラの温泉タマゴ和え、青じその千切り、さらにちょっとした風味を添える意味でイカ天の揚げ玉を加えた。豆腐と蓮根の擂り流し汁は、加賀料理に敬意を表したというところ。こちらは熱々で。まあ、あっさりと質素ではあるが、これでなかなか作るのは手間ひまがかかる。おいしく頂き、非常に有意義な練習は、和気靄々たる会食を以て締めくくったのであります。

2019年6月24日月曜日

梅しごと


 ちょうど今ごろ、つまり梅雨の頃に、梅の実が熟する。
 私の家の庭には、良い実のなる梅の木が二本あって、ことしも無事たくさんの大きな実をつけた。そうして梅の雨が降る時分まで我慢して木で熟させ、それから取る。
 昔は、これで梅干しも漬けたし、梅酒も作った。梅酒に至っては、作ってもなにせ私がまったくの下戸でアルコールは受け付けない体質なので、自分で飲むことはない。ただ、漬けてから十年もすると、それはそれは豊潤な香りのトロリとした梅酒になるが、飲めないのはまことに残念。そこで近年は、これを甘煮にしたり、ジャムを作ったりすることにしたのである。
 自宅製の梅はほとんど農薬を使っていないから安心だし、砂糖の甘味も控えめにしているので、じつに爽やかな風味のそれができる。
 梅の実は植木屋に取ってもらって、まだ青いのも多いので、二三日そのまま室内に置いて黄色く熟すのを待つのである。さて熟すと素晴らしい香りがしてくるので、さあそうなったらジャムに煮時である。
 よくよく実を洗いながら、ナイフで皮と身を核(たね)から切り離してゆく。これがひとつの大仕事だ。そして、家中で一番大きな寸胴鍋をだして、そこに剥くそばから放り込む。こういう仕事を「梅しごと」というのだそうだが、私のところでは、梅しごとはいつも夫婦二人でせっせとやる。で、煮るのは私の専門事項だ。
 大量の砂糖、白ワイン、さらに黒胡椒とシナモンと少々の塩とを加えて火にかけ、あとはひたすら煮込むだけである。市販のにくらべると甘味はうんと控えめに作る。ジャムは美味しいから思うさまパンにのっけて食べたいが、あまり甘いとカロリーが高すぎて健康によくなさそうだから、これを控えめにしておくのである。
 煮詰めすぎると、まるで梅のフルーツらしい感じがなくなってしまうので、私はせいぜい三十分ほどしか煮込まない。それでまだいくらか水っぽいテクスチャーだという感じのうちに火を止めて、あとは耐熱ガラス瓶に煮立っているところを即座にいれて、電光石火で蓋をしめてしまうと、内部が熱消毒されてくさらない。
 煮ている間、こまめにアクを取ることも、ジャムを爽やかな風味に仕立てるためには必要である。 
 例年のとおり、とても美味しくできて、今朝からさっそく舌鼓を打っている。
 

2019年5月23日木曜日

日光学習旅行


 五月の20日と21日の一泊二日で、日光へ旅行にでかけた。これは、別になにかの仕事というわけではなく、私どもの孫で、長男のタイタスが今年十歳になったのを機会として、あまりに日本の文化や歴史のことを知らないままアメリカ人として大人になってしまうことを防ぐために、教育の旅を企画したのである。一泊二日で行けるところは距離的に限られてくるので、東京近郊では日光がもっとも好適であろうと考えた。そうして、明治初期に日本の東北の奥地まで旅行して歩いたイザベラ・バードの『Unbeaten tracks in Japan(日本奥地紀行)』の日光の章をコピーして前もっての学習課題として渡し、父親のダニエル君の協力を得て、まずは明治風の格調高く難しい英語での日光学習をさせ、その上で、20日は東照宮と日光杉並木、江連家住宅などを見学。上の写真は、有名な杉並木の日光街道で、ここを毎年の日光例幣使が通った。かの川瀬巴水もこのところの風景を描いている。東照宮は外国人観光客で賑わっていたが、やはり悪趣味なまでの装飾過多には、独特の迫力が感じられる。

 翌日は記録的な土砂降りのなか、まずは大正天皇の御座所として知られている田母澤御用邸を見学。朝一番であったこと、また土砂降りであったことから、ほかには見学者は皆無で、ゆっくりと160室もの御用邸を見学してきた。この写真は、その御用邸の内部である。もともと紀州徳川家の邸を一部移築したところに多くの増築をおこなったのがこの御用邸で、近年美しく再整備されて一般に公開されている。大正天皇は、しばしばこの御用邸に滞在されて、多くの歌を詠んでおられるが、なかなかに名歌が多く、私の愛読するところである。雨に濡れた庭には、緑の苔が美しく、また一つの見物であった。英語のガイダンスもあるので、タイタスはもっぱらその英語の説明をイヤホーンで聴きながら、真剣に見て回った。天皇というのがどういう存在であるか、そのあたりも半分日本人としてぜひ知っておいてほしいと思った所期の目的は達したかと思う。そのあと、華厳之滝、中禅寺湖を観たが、あまりにもひどい豪雨で、滝は見えたけれど、湖はなにも見えなかった。豪雨のなか、車では入れず遊歩道を歩いてでなければ行けない英国大使館の夏公邸やイタリア大使公邸などは、見学をあきらめた。前者はかのアーネスト・サトウ英国公使が造ったもので、つい最近美しく整備されて一般に公開された。バードの日光探索にはそのサトウが付き添っていろいろ案内・教示をしているので、ぜひその夏公邸を観たかったが、残念であった。これは来年、次男坊のエイサを連れて見に行くことにしよう。

2019年5月9日木曜日

大町エコノミスト村演奏会


 史上最大の十連休も終り、皆さま、どこか気抜けしているところかもしれません。
 私どもは、五月五日こどもの日に、信濃大町のエコノミスト村・・・すなわち、私も北山ドクターもそこに山荘を持っている村ですが・・・に於て、はじめて声楽演奏会を催しました。
 午後三時開演の、まあティータイムコンサートということで、曲数は十二曲ほど、時間にして一時間ちょうどの軽い演奏会でした。『夏は来ぬ』『朧月夜』『青春の城下町』『北国の春』『帰れソレントへ』などなど、毎度おなじみの曲ばかりで構成しました。
 写真は、その会場となった、村の中心、エコノミストセンター。ここ通称クラブハウスに、みんなに手伝ってもらいながら、椅子など並べ、即席の演奏会場としました。天井は高く、全体が木造の内装で、そこそこに良い響きが得られたので、楽しく歌ってきました。ピアノ伴奏は、石川美也子君。石川君は、もうだいぶ以前、私がゴールデン・スランバーズという重唱団を主宰していたときに、いつも付き合っていただいた腕利きのピアニストで、桐朋のピアノ科を卒業後、東京芸大の大学院でも学んだという人です。気さくで、明るく、そして無類に腕が利くというので、演奏でも練習でも大いに助けられました。
 おかげさまで、大変にご好評をいただき、またぜひ次回もお願いしますと、何人もの方に言っていただいたのは、演奏冥利に尽きるという思いがしたことでした。
 また、第二回も企画したいと思っています。

2019年4月30日火曜日

上田真樹個展演奏会


 ちょっと順序が逆になってしまったのだけれど、実は、モリスハウスのコンサートに先立って、去る4月13日の土曜日に、渋谷のさくらホールで、作曲家上田真樹の作品を集めて、多くのアーティストたちが集合した、「上田真樹個展コンサート」という催しがあった。上田真樹君は、私が東京芸大の教師をしていた最後の年に芸大一年に入ってきた学年・・・いわば最後の教え子の一人である。当時、私は歌曲を作る作曲家を探していたので、作曲の学生には、みな歌曲を作ってみないかと声を掛けて、なかには詩を提供したりもしたのだが、前衛的現代音楽ばかりに興味の集中している芸大作曲科では、歌曲をまともに作ろうという学生はきわめて乏しかった。上田君も、それまで歌曲などは作ったことがなかったそうであるが、非常に真面目な学生であった。そこで、彼女にも声を掛けたところ、作ってみるということになって、私はいくつかの詩を彼女に贈ったのである。すると、彼女が歌曲や合唱曲、つまり「歌」の作曲家として、きわめて非凡な、しかもとても美しいメロディーを書く才能に恵まれた人であることが、すぐに分かった。以来、私は彼女に詩を贈り、彼女は私に曲を贈ってくれて、あるいは私が主宰していたThe Golden Slumbersという混声重唱団や、重唱林組、またテノール勝又晃君と組んでやっていたDuo Amiciなどに、編曲で協力してもらうようになった。それで夥しい数の歌曲を二人で作り、または編曲を作って初演するということが度重なった。そのうち、『夢の意味』という合唱組曲の出世作を作ってたちまち世の中に知られるようになり、また『鎮魂の賦』という合唱曲で、朝日作曲賞も取った。いっぽうでまた、私は彼女にソルフェージュのレッスンを二年間に亙って受け、さらには、東京エフエムの衛星放送ミュージックバードでやっていた音楽番組『リンボウ先生の音楽晩餐会』などの「音楽取調掛」として私の右腕となって働いてももらったのだった。今ではもう合唱音楽界の売れっ子となって、とても忙しいので、いっしょに仕事をすることはほとんどなくなったが、そんなご縁があって、この演奏会でも私の詩の作品が多く演奏された。『かなしみのそうち』という朗読と音楽の組曲は、女性作曲家連盟の委嘱で作った作品で、今回これを再演するので、私は自作の詩の朗読で出演。ついでに、最後の大合唱『酒頌』(イェーツ原詩、林望訳詩)のバスパートに入ることを勧められて、まったくの泥縄で参加したのが、この写真である。合唱は人生最初のことであったが、でも非常に楽しい経験であった。上田君ありがとう。

2019年4月27日土曜日

金沢モリスハウス



 去る4月24日水曜日、金沢のモリス・ハウス(ウイリアム・モリスのレッドハウスを模した内外装の疑似的教会建築)で、今年のデュオ・ドットラーレ第一回のコンサートをやってきた。今回は、『望郷ソングス』というタイトルで、主に望郷の思いを歌った古今の歌曲を、独唱と二重唱で歌ってきた。
 このモリス・ハウスは、もともと結婚式場として使われていた建物だが、今はもっぱらこうして音楽会のホールとして使用されている。音響は理想的で、じつに歌いやすい素晴らしい会場なのであるが、残念なことに、諸般の事情によって、まもなく取り壊されると聞いて、おおいにがっかりしているところである。
 今回のプログラムは、小学唱歌や、歌謡曲なども含めて、多彩な内容で構成したのだが、私の独唱曲目は、日本の歌謡曲一曲と、英語の歌三曲であった。
  青春の城下町(遠藤実作曲、梶光男のヒット曲)
  Irish Lullaby
        Galway Bay
        Granny's Hielan' Hame
 英語の歌三曲のうち、アイルランドの歌が二曲、そして3曲めのは、スコットランドの歌で、いずれも比較的新しい叙情歌であるが、アイルランド方言やスコットランド方言を歌詩に持つ特異な曲で、しかし音楽的にはいかにもノスタルジックで美しい。
 北山先生は、皆さまおなじみの名曲、
  北国の春(これも遠藤実作曲、千昌夫の大ヒット曲)
 ならびに、イタリアの歌で、
  帰れソレントへ
  遥かなるサンタルチア
  グラナダ
 の3曲を、こちらはイタリア語で熱唱、大向こうからのブラボーを受けて盛り上がった。
 伴奏は、金沢のピアニストで、中田佳珠(かず)さん。私共の音楽仲間である。

2019年4月8日月曜日

4月の大雪注意報


 先週は、ドットラーレの練習のため、信濃大町の家に行ってきたのだが、どうしたわけか、4月2日だというのに、十数年ぶりの大寒波が襲来、安曇野インターを下りたのが午後三時、それから四時前に大町の家に到着したときは、ごらんのような真っ白の雪景色で、気温は午後四時で、すでに零下三度という寒さ。まことに震え上がった。
 この雪のため、金沢からの北山ドクター一行は来信を諦め、翌日三日に予定されていた練習は、急遽取りやめとなった。
 結局この日は、大雪注意報が大町・白馬地方に発令され、時ならぬ大雪となったが、幸いに、翌日の午後には霽れて、四日はぽかぽかの春日和となったため、春雪はたちまちに融けて、春らしい景色に変貌したのは幸いであった。結局、練習は、7日の日曜に行ったが、静かな村で楽しい練習となった。
 来たる五月五日には、村内のイベントの一つとして、クラブハウスで演奏会をやることになっていて、試しにその会場となるクラブハウスでも歌ってみたが、思っていたよりは音の響きがあって、これなら大丈夫かな、とホッと胸をなで下ろした。
 信州は、いよいよ春となり、花もそろそろ綻んで、水田には水も張られ、良い景色になってきた。これから五月まで、信州はもっとも美しい季節を迎える。

 

2019年3月31日日曜日

古稀の祝い



 きのう土曜の宵、新宿のさる寿司屋で写真のような集まりがあった。
 これは、私がはるかむかし・・・もう三十年余も昔に、上智大学の大学院で書誌学を教えたことがあった、その時に私のゼミに参加した諸君が私の古稀を祝ってくれたのである。いまもこうして和気あいあいたる雰囲気のなかで、一介の非常勤講師に過ぎなかった私の古稀に祝宴を開いてくれた、まことに嬉しい限りである。彼らは、十年前の還暦のときも、おなじように祝ってくれた。それから十年が経って、みな相応に立派になり、大学、高校、高専などの教職や研究職にあって、大きな仕事を着々と進めている。
 結局、教職というものは、そうそうお金が儲かるわけでもなく、世間的に有名になるわけでもないけれど、こうやって、何年経っても「先生、先生」と言ってくれる教え子たちがいる、それがなによりのことである。きのうは、こうして、ささやかな幸福を味わい得た良い一日となった。

2019年3月11日月曜日

クラシカルギタークラブ


 さらにさらに時を遡ると、この写真はたぶん私が大学三年のときに、慶應三田の西校舎の地下にあった学生食堂で撮影された一枚である。
 私は、大学二年の時に一回留年しているので、同期の仲間よりも卒業は一年遅くなった。で、私は大学一年のときから、クラシカルギタークラブというのに入っていて、在学中は、暇さえあればクラシックギターを弾いていたのである。
 しかるに、大学も卒業間近になると、いわゆる卒業アルバムというのの編集が始まり、その巻頭カラーグラビアに、学内風景としてのさまざまな写真が載る。たまたまこの年の編集委員に、懇意にしていた男がいて、私はこの写真を撮って載せてくれるようにと頼んだのであった。左側にいるのは、伴君といって、このクラブの代表であった。右側は渡辺君といって最後の演奏会では私と組んでマウロ・ジュリアーニの二重奏曲を演奏した仲間である。こうして、1971年の卒業アルバムの巻頭を飾ってこの写真が掲載されたのであるが、肝心の卒業生写真のところには私は出ていない。当然のことながら、落第のために、まだこのときは三年生だったからである。こうして、私は、1971年のと、翌年の1972年のと、二年間に亙って卒業アルバムに載ることになったのである。呵呵。

2019年3月9日土曜日

1978年


 さらに時を遡って、この写真は、1978年の五月に、慶應義塾女子高校の教師をしていたころ、その修学旅行の引率に行った折の写真である。
 慶應女子高の教師といっても、一介の非常勤講師であって、担任などはむろん持つことなく、ただ古文と漢文を教えていたに過ぎぬ。それでも、多い年は週に四日出講していたので、まあ生徒から見れば専任の教師と同じように見えたかもしれぬ。この女子高は、いわゆる職員室(教員室)というものがなく、教師は学科ごとに別れてそれぞれの研究室に所属することになっていた。それゆえ、私は非常勤ながら、国語科研究室にちゃんとデスクを与えられて勤務していたのである。しかもなお、毎年の修学旅行には、高校三年生の京都・奈良に随行引率して行った。1978年というと、今から41年もの昔になるから、私は29歳であった。この頃は、口髭を生やしていなかったことは写真に見えるとおりだが、これは当時私は能楽の地謡方として常時舞台をつとめていた関係で、口髭などは落すようにと師匠から申し渡されていたことの結果である。
 この写真は、たぶん、京都の東急インで、早朝に生徒たちと散歩などしているところであろう。なにやら寝ぼけたような表情をしているのは、そのせいである。
 その後、さまざまな学校で教鞭を執ったが、この慶應義塾女子高での六年間が、もっとも充実して楽しい教員生活だったような感懐がある。

2019年3月7日木曜日

はるかなりヘミングフォード


 必要あって、古い写真帖を取り調べていたところ、こんな写真に行き当たった。
 これは、1992年の8月31日に、ヘミングフォード・グレイの村外れ、Great Ouse 川の岸辺での一枚である。今からもう27年前の写真である。ちょうどこの立っているところが、ボストン夫人のマナーハウスの真ん前のところで、私の背後に、その庭に入る鉄扉がある。八月の末ともなれば、イギリスは早や寒くて、こんな厚手のセーターを着ている。こういうセーターはBrenire(ブレナイア)といって、スコットランドの、まあ言わば労働着がもとになっている。このセーターは今も大切に着ているが、すこしも痛んではいない。
 1991年に『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』(ケンブリッジ大学出版)が刊行されたとのほぼ同時に『イギリスはおいしい』(平凡社)も出て、ベストセラーになったので、私は俄にイギリス関連の仕事に忙殺されるようになった。
 しかし、毎夏休みに、いつもイギリスで過ごすようになったのは、まさにこの時分で、今でもあの爽涼なイギリスの夏を心から懐かしく思う。また行ってみたいなあと思わぬ時とてもないが、実際には、もう行くことはないだろう。そう思うと、こんな写真がまた、無上に懐かしく、なんだか涙ぐましい思いさえ湧いてくる。
 嗚呼、イギリスの夏!

梅花馥郁たり



 庭の白梅が満開となった。
 この梅は、かつて小金井市の貫井南町というところに住んでいたころ、その庭でかわいがっていた白加賀という梅で、植木屋が、二の足を踏むところを、なんとか頼み倒してこの家の庭に連れてきたものである。
 それからは、日当たりが余り良くないせいか、たいして実は生らないが、何年かに一度はバケツいっぱいくらいの大きな実がなる。
 その実は、種を去って甘酸っぱいジャムに煮る。
 梅はもう一本あって、そちらは豊後梅という薄紅の花の咲く種類であるが、これとてもう樹齢四十年近いことになった。こちらも大きな実が生る。
 この白梅は、とても香りがよく、二階の部屋の窓をあけると、馥郁と香るのであるが、あいにくと、この季節は花粉がひどいので窓を開けておくことができぬ。しょうがないから、ときどきベランダに出て、その香を楽しむのである。
 小金井の里は、いま、どこもここも梅の花盛りである。

2019年2月26日火曜日

りんぼう貝


 
 いよいよ誕生日も過ぎ、夫婦そろって七十歳の春となった。
 それゆえ、その誕生日をお祝いしてくれるという名目で、娘一家と江の島で集合、春の良い一日を、のんびりと孫どもらと遊んでくらした。
 雨という天気予報は幸いに外れて、雲もない快晴となった江の島は、気温も十六度ほどになり、すこしも寒いということはなかった。
 しかし、びっくりしたのは、平日の午後だというのに、江の島が観光客でごった返していたことである。その大半は中国からの観光客とおぼしく、そこらじゅうで中国語が飛び交っていたのは、時代とは申せ、驚かずにはいられない現実である。十歳を頭に、二歳の末娘まで、四人のアメリカ孫どもはみんな元気で、運動神経抜群の末娘は、江の島のあの山のてっぺんまでスタコラサッサと歩いて登った。小さな体からすると、すばらしい運動能力である。それから、さらに頂上の灯台展望台までも歩いて登って、平然たる面持ちであったのには、ほんとうに驚かされた。それから、丘の上の芝生で駆けずり回るやら、夕方の砂浜に出て貝殻を拾うやら、孫たちにとってはまことに楽しい江の島遠足となった。
 そして駐車場に戻る途中で、総領孫息子が、この「りんぼうがい」という石畳のタイル表示を発見。へええ、こんな貝があるのか、とびっくりするやら、なにやらおめでたい気がするやらで、喜んで写真に収まったというわけである。
 このあと、片瀬海岸のレストランでアメリカ孫たちは、ステーキなどをどっさりと食べて上機嫌で帰った。
 よい春の一日であった。

2019年1月23日水曜日

ご無沙汰しました


 みなさま、たいへんにお久しぶりでございます。
 気がつけば、前回の更新から一ヶ月半ほどにもなり、2018年は終了して、新しい年になっておりましたが、新年のご挨拶も申し上げず、まことに失礼いたしました。
 はなはだ遅ればせながら、どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、新年は、いつもの如く年賀状書きに始まり、やがて孫どもが押しかけてきたりしてワヤワヤとやっているうちに松も取れ、つぎつぎに原稿の〆切りに追われたりしておりますうちに、なんと不覚にも、13日から、いま流行のインフルエンザに取っ捕まって、39度の高熱で呻吟すること数日、新薬ゾフルーザのおかげで、数日で熱は下りましたが、食欲の減退することただならず、おかげさまで、三キロほども痩せて、思わぬところでダイエットに成功いたしたましたような次第です。
 ただいまは、遅れに遅れております『(改訂新修)謹訳源氏物語』第八巻の校訂作業を進めておりまして、なんとか三月までにはこれを刊行せしめるべく、がんばっているところです。まことに弱り目に祟り目でこのインフル罹患、おかげで、また一週間ほど予定が遅延するところとなりましたことは、遺憾の極みでございます。
 どうぞ、くれぐれもこのインフル流行にはご注意くださいますよう、皆さまのご自愛を祈りおります。