2014年11月22日土曜日

鎮魂の賦

ことしは、不思議に私の作詩した合唱作品の当たり年になった。
じつは本日、11月22日の午後五時から、慶応義塾大学ワグネルソサエティ男声合唱団の定期演奏会があるのだが、そのなかで、上田真樹作曲『鎮魂の賦』(朝日作曲賞受賞作品)の男声合唱版が初演される。
そこで、先日、そのワグネルの練習に立ち会って、いろいろ作詩者からのアドバイスやら、詩についての解説やらをしてきた。
いままで、何度かこの曲の演奏を聞いてきたが、この度のワグネル初演の男声合唱版こそは、じつはこの曲のもっとも適切な演奏形式ではないかと思わせてくれるような、素晴らしい演奏(まだ練習途上であったにもかかわらず)であった。
さすがに畑中良輔先生が生涯指導を続けてこられた、合唱界の一方の雄であるワグネルである。今回この鎮魂曲を取り上げるのは、ほかならず畑中先生に献呈するという意味合いも込めたよしである。
じっさい、練習に立ち会ってみると、底響きのする、そしてまた倍音の豊かに聞こえる厚みある演奏、学生諸君の気合の入った練習ぶりに、私は聴いていて落涙を禁じ得ないところであった。
本日の夕刻五時開演(人見記念講堂)の本番演奏をすこぶる楽しみにしているところである。
と同時に、面白いことに、ことしは筑波大学合唱団が創立40年記念定期演奏会を開くについて、現役合唱団は、同じく上田真樹作曲『夢の意味』を、またOBOG合唱団は、私の詩に、なかにしあかねさんが作曲した『ひとつの時代』という委嘱新作を初演するというので、これは、先日その練習に立ち会って、さまざまのアドバイスをしてきたところである。これまた、なかにしさんの作曲素晴らしく、短いながら(三曲構成)愛すべき作品となっていて、12月7日浅草公会堂の本番が楽しみである。近く、その現役合唱団の『夢の意味』についても練習立ち会いの予定で、はるばる筑波まで出向くことになっている。
と思っていたら、次にまた青山学院のグリーンハーモニー合唱団(混声)が、『鎮魂の賦』混声版を、12月29日午後三時開演の第六十回記念定期演奏会(人見記念講堂)で演奏するという連絡が指揮者から入り、指導を受けたいという希望に応えて、急遽その練習に立ち会うことになった。今日はその青山学院での練習立ち会いのあと、ワグネルを聴きに行く予定である。忙しいながら、楽しい一日である。
写真は、ワグネルの練習のあと、指揮者、伴奏者、作曲者、学生代表、OB会長らと会食の折の記念撮影。私の左側の女性が作曲の上田真樹君。右隣が指揮者の佐藤正浩氏、後ろに立っているワイシャツ姿がピアノ伴奏の前田勝則氏。

2014年11月3日月曜日

MIYABICA

去る10月19日、代々木の修養会ビルなるSYDホールにおいて、高牧康と東京ベルズの歌のコンサートが開かれた。
今回のコンサートは、このたび、ディスク・クラシカから新発売になった、彼らのCD『MIYABICA(雅歌)』のリリースを記念してのものであったから、CDに収められたすべての曲目を総ざらえに歌うというプログラムであった。
このMIYABICAというのは、私が新たに訳出した新訳日本語詩による外国曲(ちょっとエロス的な味わいがある歌ども)というコンセプトの謂いである。古いところでは、ダウランドやウィルビーの、あるいはジャヌカンやラッススなどの、ポリフォニックな重唱曲、新しいところでは、サン=サーンスやエルガーの合唱曲、さらには、高牧君自作の新曲など、まことに広いレパートリを包括するものである。もともと彼らは原語の演奏でさまざまの賞などを受けている実力派の重唱団であるが、このCDを制作するにあたって、ぜひ日本語に訳したヴァージョンで歌いたいという高牧君の熱い思いにこたえて、私は、あらゆる手練手管を尽くして、原詩に忠実でありながら、かつ聞き取りやすく、かつエロス的な艶があるようにと心を込めて訳詩を作った。
もともとアカペラの重唱団としては、日本有数の実力を認められているベルズの諸君のことゆえ、コンサートでは、この新しい日本語詩を縦横に歌いこなして、それはそれは見事な演奏であった。
このCDについては、下記のディスククラシカのサイトでご覧いただきたい。

 http://www.disc-classica.jp/lineup/takamaki_bells.html

ところで、その記念演奏会に、私はプロデューサの仙波知司さんと、ド突き漫才よろしく掛け合いの「解説」などすることになっていたのだが、なんと前々日くらいになって、高牧君から、どうしてもアンコールで一曲歌ってくれないかという要望が来た。それは困ると辞退したのだが、そこをなんとか、という重ねての要望もだしがたく、ついにこれを諾して、当日は、ダウランドの「Fine knacks for ladies」と、ヘンリー八世の「Pastime with good company」の二曲を彼らと一緒に英語で歌わせてもらうことにした。前者は、一番を私が独唱し、三番はアンサンブルで私はバスパートを歌う、ということで。また後者はかれらのアンサンブルとともに、私は旋律パートを歌うということにした。
写真は、そのリハーサル風景である。あまりに急なことで練習もできぬままの本番、私にしては珍しく緊張してしまった。ま、しかしそれもご愛嬌というものであったろうか。
どうかみなさま、このCD「MIYABICA」をよろしくお願いいたします。
(この日本語詩版の楽譜など出るといいなあ!)


2014年10月18日土曜日

薩摩の旅

ひさしぶりに薩摩に行ってきた。鹿児島市の城山観光ホテルが主催する維新回顧のイベントの一環で、『薩摩スチューデント』(1865年に薩摩藩がイギリスに送り込んだ15人の俊才留学生)のことを話してきたのである(くわしくは拙著歴史小説『薩摩スチューデント、西へ』光文社文庫をご一読ください)。所与の時間は60分という予定であったけれど、なにしろ15人もいる留学生のことを話すには足りない時間で、すこしオーバーして極力詳しく話した。
講演の前に数時間の閑暇があったので、ひとつは地元鹿児島テレビのインタビューを収録したのと、南日本新聞の取材で、磯の異人館に行って写真撮影、そしてそのあと、ご当地名物「ぢゃんぼ餅」をご馳走になった。この「ぢゃんぼ」というのは「両棒」と書いて「リャンボウ」と読んだのの転訛であろうと思われる。ご覧のように、一つの餅に二本の棒(串)が挿してある。それでこう呼ぶので、別にJamboではなく、むしろ小さなミタラシ餅と言うべきものであった。ただし、生地はミタラシ団子よりだいぶソフトで、よく伸びる。それでも一人前が写真の一皿なので、よほど大量である。これ一皿でずいぶん満腹してしまうが、もとは海水浴の人たちのためのおやつだったそうで、ヴォリュームがあるのはそのためだそうである。写真は異人館ちかく(そこがこの餅の発祥の地という)の平田屋という老舗で、その餅をやっつけているところである。これがなかなか美味しかった。

なんといっても鹿児島のピカイチのお菓子は、この加治木饅頭であろう・・と私は勝手に思っている。ヤワヤワとして、ペトペトとして、上品に甘く、暖かく、薄っぺらく造形してあるので食べやすくもある。私はこれが大好物で鹿児島に行ったら買わずには置かない。
今回の旅でも三軒の加治木饅頭を試みた。そのうちのひとつ岡田商店(加治木駅前)のそれを写真にとった。これもなかなかおいしかったが・・・、

数多い加治木饅頭屋のなかで、私がもっとも愛してやまないのは、この写真の店、すなわち新道屋(しんみちや)のそれである。ここは、毎日午前中で売り切れてしまうので、ホテルから出て、いの一番に買いにいった。そうしたら、もうすでに長い行列ができていて、三十分ほどもまたなければ買えないという盛況であった。新道屋の店は、小さなガラス窓で閉じられ、それが時々開いて、なかからお店の人が顔をだす。そしたら、注文だけして待つ。その間、くだんの注文窓は常にピシャリと閉じられている。まるで売ることを拒否するような風情だが、いやいやそうでない、これは室内の蒸気が逃げて饅頭が乾燥するのを防ぐという目的があって、こういう販売形態になっているよし。しかも「手作りの饅頭が三分に一回、二十個ずつ蒸し上がる」というわけで、じっくりとまたなくてはならない。なにごとも忍耐である。
私も列にならんで待つこと三十分、やっと自分の番になったので、十五個買った。うちは大家族なので、このくらい買わないと追いつかない。
出てきた饅頭は蒸したてとあって、手に持てないほど熱い。これをエイヤッとかばんに入れて、それから夕方まであたりを逍遥し、東京に着いたのがおよそ六時半、それから家に辿り着いたのは八時半になっていたが、なんとまだ饅頭は幽かに温かった。さっそく包を開いて舌鼓を打った。いやあ、うまい!
これは東京では絶対に買えないもので、鹿児島の加治木に行って、新道屋の店頭に午前十一時前には行って、行列して、忍耐して、やっと買えるのだ。しかしそれだけの努力と忍耐をする価値はたしかにある。それほどの美味であり、なおかつ一個が90円という安さで、じつにどうも結構至極である。
もし鹿児島に旅行をなさったら、ぜひこの新道屋の加治木饅頭を求めて食べてご覧になるがよい。なお、十五個買った饅頭は、家に帰った途端に、私は二個平らげ、娘婿も、妻も、みな二個ずつぺろりと食べてしまったので、即座に半分なくなってしまった。

それから、飛行機の時間まで、加治木、隼人、霧島のあたりをぶらぶらと当てもないドライブをした。
紅葉には少し早かったが、気候はよし、風景もなかなかのもので、束の間ながら、愉しいドライブだった。
途中、犬飼の滝というのに遭遇したが、どうしてどうして、立派な瀑布で、水量といい落差といい、一級品の滝であった。

2014年10月8日水曜日

飯田へ講演に

木曽の御嶽山が噴火をして大きな被害が出たことは、まことに心が痛むが、その御嶽も遠からぬ飯田へ4日に講演に行ってきた。
もしかして火山灰など降っていはせぬかと案じたが、風向きの加減か、この町にはとくに火山灰の被害などはないということであった。
講演は、源氏物語の世界を語るということで、予定の時間を若干オーバーして、二時間十分に亘って一生懸命話してきた。聴衆はとても熱心で、長い講演時間にもかかわらず、一心に耳を傾けてくださった。飯田は文学の盛んな土地柄らしく、もう長いこと続いている読書会の方々などがずいぶん聴きに来てくださったらしい。ありがたいことである。
講演に先立って、午前中に少し時間があったので、例によって車を駆って近在を見物して回った。そしたら、南原橋という高架橋にゆきあい、そこからは天竜峡が絵のように見事に見渡された。さっそく車を路傍に駐めて写真を撮りに歩いて戻ったが、いざ橋の真ん中まで行くと、そのあまりの高さに、高所恐怖症の著しい私はとても橋の欄干のところまでは近づくことができず、へっぴり腰になってすこし欄干から離れたところで写真を撮った。
なんでもこの辺りでは一番の高架橋で、年に何人も身投げをする人があるのだとか、後で聞いた。

2014年9月28日日曜日

ガーデニングの国

ご案内のように、イギリスはガーデニングの天国で、家々の庭が、たいてい美しくガーデニングされている。それは良識ある市民の義務のようなものかもしれない。そうやって、自分の家を美しく作庭すること、その庭が連なって一つの街の景観を構成することから思えば、おのれの家の庭を荒れたままにしておくというのは、市民としての怠慢だと言わざるを得ぬ。事実これが、貧しい人たちの住む区域に入るととたんに庭が荒れ、市街の景観も荒涼としてくるのがわかる。
さて、この写真は、私が第二の故郷の家、ヘミングフォード・グレイのボストン夫人のマナハウスのお庭である。現在は、故ルーシー・ボストンの子息故ピーター・ボストン夫人であるダイアナさんが、一人この古い邸を守っている。五千坪からあるお庭を、このように美しく保つのは並大抵の仕事ではないが、今も四方のお庭は、このように見事に管理されているのは、ほんとうに頭がさがる。
イギリスに旅行の折に、ぜひここを訪れてみたいという人は、必ず前もってのアポイントメントが必要なので、次のホームページを参照していただきたい。
 http://www.greenknowe.co.uk/index.html



さてこちらのお庭は、私がケンブリッジに滞在するときの定宿となっている、ガートンのLIBRE HOUSEの庭である。ここは、Jill & Peter Free 夫妻の自宅でもあり、その広々とした庭の一角に、母屋に接続したアネックスが建てられてあって、そこがホリデイハウスとして提供されているのである。おおかた十二畳くらいのベッドルームと、6畳くらいのLDK,それにトイレ、シャワーなどが設備され、コンパクトにまとまったキッチンには洗濯機や電気クッカーが組み込まれ、また電子レンジ、高速Wi-Fiその他ひと通りの生活用品が備わる。それで、(季節によって多少変わると思うけれど)一週間で300ポンド(約五万円)くらいのリーズナブルな家賃(駐車は無料)なので、ほんとうに助かるのである。ロンドンでは、つまらないホリデイ・インの狭苦しいツインの部屋でさえ、一泊200ポンドもふんだくるのにくらべたら、まるで天国である。そして、このフリー夫妻の、ほんとうに誠実で優しいお人柄にも惹かれて、私はケンブリッジではつねにこの家を拝借してゆうゆうと暮らすことにしている。この家の庭も美しくガーデニングされているので、四季折々の風景を楽しむことができる。

ああケンブリッジ!

ロンドンから、ほうほうの体でケンブリッジに到着すると、そこは懐かしくて静かで、アカデミックで、気持ちのよい空気が横溢して、なんともいえない快さを感じた。この背後の高い塔の建物は、ケンブリッジ大学図書館の正面である。この建物こそ、私が三十代に力を尽くして『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』の編述にあたった、思い出の場所である。建物はまったく変わりなくそこに同じように建っていたが、なかは相当に模様替えになっていて、ちょっと面食らうこともあった。だいいち、トイレの水洗が「手かざしリモコン」になっていたのはびっくりした。ただし、もちろんウォシュレットのような仕掛けはありはしなかったが・・・。

ケンブリッジでは、市の中心からすこし離れた、Girton(ガートン)という村に宿るのを常としている。この写真は、そのガートンから市内のほうを遠く望んだもので、この道はHuntingdon Road(ハンティンドン・ロード)と呼ばれる。ちょうど、イギリスの秋らしい霧が立って、向こうの方はすこしぼんやりと霞んで見える。樹々はもう黄葉して、いちだんと瞑想的な雰囲気が感じられる。

2014年9月27日土曜日

ロンドンの光と闇

 フィンランドでの仕事を無事終えて、ヘルシンキのぶらぶら散歩も終えて、ロンドンに行った。数年ぶりのロンドンは、またもやかなり様変わりしていた。おそらくオリンピックをはさんでの変化が相当に大きかったのであろう。
まず第一に、かつては真っ黒に汚れ、荒れ果てて、それこそ荒涼たる区域だったsouthwarkの周辺がすっかりリノベーションをされて、面目を一新したのはいいけれど、なんだか薄っぺらい観光エリアになってしまい、ロンドンらしい「闇」が消えてしまったのは、いかにも残念。この写真は、旧市場の建物だが、私が三十年前にここらを歩いていたときは、ほんとに切り裂きジャックでも出てきそうな物騒なところであったし、その先の有名なパブ「The Anchor」も、十九世紀の昔のままでまことに好ましかったものが、今は、すっかりのっぺりした観光客相手のスポットになり、まるで趣をなくしてしまっていた。その一方で、この写真の後ろに写っている硝子張りの阿呆なデザインのビルのような、いわゆるポストモダンの、建築家の頭の悪さと趣味のなさが露見しているような愚劣なビルがあちこちに建っているのはあきれ果てた。この硝子ビルなど、上に行くほど面積がゼロに近くなるので、何のために建てたのか意図が知れぬ。また別の「有機的デザイン」の硝子ビルは、ちょうどそれが集光器の形になって、そのビルの下に車を駐めておくと、太陽光が集中して塗装が焼けて溶けてしまうという、大問題を引き起こしてロンドナーの失笑を買っているらしい。建築家の愚かな趣味と施主の無定見は、なにもわが東京の新国立競技場だけのことではないのである。
さるなかに、この「ロッホファイン」というスコットランドの鮮魚をメインとするレストランは、シティの只中にあって、結構な美味しさであった。しかも、イギリスのレストランとしては、例外的にポーションが小さく、われわれ日本人の口にも合いやすい。私はスコティッシュスモークサーモンを頼んだが、なんと「刺身風」とあって、刺身のように切った脇にわさびと醤油がついてきた。これで銀シャリがあれば申し分なかったが・・・。

趣味の良し悪し

ヘルシンキは大変に美しい街で、とくにその建築美には心打たれるものがあった。とくに誰の設計だとか、そういうのではないが、ともかく街に櫛比している建築の概ねの高さが揃っていて、しかしどれひとつとして同じようなものがないというか、ネオゴシック、ドイツルネッサンス風、アールデコ、アール・ヌーヴォー、ユーゲントシュティール、モダニズム、新古典主義と、いろんなのがみな美しく整備されて甍を並べているのは、建築好きの私には応えられない楽しさであった。おそらく、ミラノ、ブダペスト、ヘルシンキの三都市こそは、世界でもっとも建築の美しい愉しい街であることは動くまい。
しかしながら、そういう美しい街なのに、なぜか極端な悪趣味もあって、その代表がこの「小便爺さん」(ほんとはなにか別の名前があるのかもしれないが、知らない)である。
港の桟橋に、どういうわけか、こういう赤裸で禿頭の爺さんの巨像があって、それがまた、なぜかドウドウと小便を垂れている。ちゃんとその小便の「出口」の部分もリアリズムで造形されているのは、いちだんと悪趣味であった。
するとこの悪趣味を喜んで、わざわざその股の下から「そこ」を見上げて写真を撮る妙齢のご婦人などもいて、おもわず苦笑せずにはいられなかった。

フィンランドに行ってきた

9月の9日から16日間ほど、数年ぶりに外国へ行ってきた。
今回は、スカンジナビア・ニッポン・ササカワ財団の理事会というのがその用務で、私はどういうわけかその財団の理事(もとより無給の奉仕ながら)なので、年に一度の理事会に出席するため、はるばるとフィンランドまで行ってきたのである。この財団はニッポン財団の分家のような組織だが、フィンランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウエイ、アイスランドの五カ国で構成され、毎年持ち回りで理事会を開く。今年はフィンランドが当番国で、その北部リゾート地、クウサモというところで理事会が開かれた。まあその理事会のことはここに書くまでもないが、このクウサモというところは、ほんとうに森と湖以外なにもないというべき美しいところで、その風景を満喫してきた。
このあたりでは、トナカイを食用に飼っているので、そのトナカイのタルタルステーキやら、スープやらの珍味のご馳走にあずかった。これは掛け値なく美味しいものである。上の写真は、当番理事のヴィヒコさんご夫妻の別荘敷地内にある船着き場で、その広大な敷地と見事なログハウス、ほんとうの豊かさとは何かを考えさられた。

理事会を終えてから、一日だけヘルシンキに戻って、めずらしく観光などをしてみた。といっても、ただブラブラと街歩きをしただけで、なにの珍しいこともないが、この写真は、その港に面したマーケットでフィンランドのB級グルメをやっつけているところである。いまやパクっと行こうとしているのは、小魚のフライで、イギリスではこれをホワイトベイトと呼ぶが、フィンランド語ではなんというか知らない。なかなかうまい。そのほかに、ソーセージを揚げたのやら、じゃがいもを揚げたのやら、あれこれ頗る脂っぽいので、じつはちょっとだけ食べたにもかかわらず、おおいに胃にもたれ胸焼けに苦しめられた。

2014年8月21日木曜日

信濃路は秋


信濃大町に来てから、このところ二三日は、さすがにちょっと暑い日もあった。
といっても、わが翠風居のあたりは、高瀬渓流と北アルプスの冷風のおかげで、日中28度以上になることはまずない。そして夕刻には20度に下がり、夜は寒いので、布団をきてねている。
それでも、今朝は寒くて目が覚めた。
目が覚めて起きだしてみると、もう空気がすっかり秋になっている。
きのう、中綱湖のほうへ行ってみたところ、いま蓮の花が咲き誇り、中綱のちょっと神秘的な雰囲気と相まって、地上の極楽かという風景に見えた。
その中綱湖畔で向こう岸を見ると、静かな湖面に対岸の山が映り、まことに不思議な感じすらする風景であった。こなたの岸にはすっかりススキが穂を風になぶらせていて、ああ秋!という気分を味わった。

2014年8月7日木曜日

勉強中

またもや、信濃大町の山荘にやってきた。
こんどは、東京の猛暑酷暑と、孫どもの喧騒から逃れて(さすがに、孫の相手ばかりはしていられなくなった)信濃大町の山荘に避暑かたがた、たまった仕事を集中して片付けようというつもりである。
きのう、東京を発ったときには、小金井あたりは36度ほどにもなる酷暑で、それが甲府あたりでは38度ちかくなり、さらに松本でさえ34度という、ともかく暑い暑いドライブであった。
それが安曇野に入ると、車載の外気温計の数値はするすると下がり続け、信濃大町に近づくころにはとうとう30度を下回り、高瀬川渓谷沿いの山居に近づくと、あれよあれよという間に気温は26度まで下がった。それが午後三時ころであるから、夕方にはまたたく間に22度、そして夜は20度まで下がったので、昨日の夜は久しぶりに冷房なしの自然の冷気のなかでぐっすりと休んだ。
冷房のなかで寝ると目が覚めたときにまことに気分が悪い。といって、冷房なしではとても寝られるものではない。小金井あたりは内陸で海が遠い分、熱帯夜の寝苦しさもひとしおだからだ。真夜中になっても30度なんてのは、我慢の限界を超え、冷房をつけないのはむしろ命知らずというものである。
というわけで、自ら「翠風居(すいふうきょ)」と名づけたささやかな山居に一人籠城して、きょうは書評を頼まれた本などを朝からずっと読んでいる。
こういう涼しさの中では、読書もまた快読という気分で進捗していく。

2014年8月4日月曜日

民宿的生活

今や、私の自宅は、アメリカから帰国してきた娘一家(夫=アメリカ人、妻=娘、そして三人の息子たち)と、一時帰国中の息子の家族(嫁、娘二人)と、つまり私ども夫婦を入れると総勢十人という大家族になっている。全員アメリカ育ちなので、家の中の公用語は英語と日本語のバイリンガルになっていて、みな適当に使い分けているのは、なかなか面白い。
さるほどに、私どものダイニングルームは、いまや民宿食堂状態で、その主人たる私は、朝に夕にと、膨大な量の食事づくりに追われている。
そこで、この食堂を、孫たちが「JIJI's CAFE」と名付け、こんな張り紙を出した。そうして、私が起きて調理等のサービスに当たっているときは、OPEN、不在のときはCLOSEという紙を貼り替えるのである。ははは。
そしてその食堂の内部は、孫どもの描き出す夥しい絵で壁じゅうがうめつくされている。こちらのサイドは、ヴァージニアから帰国したボーイズの絵で、自動車やら飛行機やら動物やら、ブルドーザーやら戦争やら、いずれ男の子の好むものは万国共通であるらしい。 
こちらのサイドは、ガールズの絵で、自動車や飛行機は、私どもが絵を描いたのに娘たちが色を塗ったに過ぎぬが、これはボーイズの趣味に影響された結果である。なかに、お花やらハートやら、そういうのは彼女たちのオリジナルで、これまた女の子の好むものは万国共通と見える。
で、しばしば、このボーイズ軍団とガールズ組とは趣味を巡って衝突などしているが、それもよい勉強というものであろう。


2014年8月1日金曜日

古文真宝研究会

きょうは、立川にある国文学研究資料館に行ってきた。
さきごろ、私が40年かかって蒐集した『古文真宝』コレクションを同館に収めたについて、その約480点ほどの『古文真宝』の完全な目録を作り、かたがた版本書誌学のオン・ザ・ジョブ・トレーニングとして、若い人たちに書誌学の概略を伝授しようという研究会が立ち上がった。その、いわばご意見番というか、耆宿というか、長老というか、ともかく私も研究者のひとりとして、この研究会に参加しているのである。さるなかにも、ここ数回は、書誌学概論というようなことを、私が毎回講義をするということになり、きょうはその日であった。みな若くてやるきがあって、また好感のもてる若い人たちばかりが集まった。これは事実上の研究会のあるじ、同館の神作研一君のお骨折りの成果であろう。写真の後列右端がその神作研一君である。
今回は、書誌著録の方法の具体的な説明と、実物による勉強をした。
終わってから、私得意のセルフタイマー撮影を以て、記念写真を撮影したのが、この一枚である。
和気あいあいたる雰囲気が写真にも出ているであろう。
もともと、私は大昔は、資料館批判の急先鋒で、資料館の天敵とさえ呼ばれたものであったが、今は上智の大学院での教え子である神作研一君のお陰で、天敵扱いもなくなり、むしろ私が阿部隆一先生から受け継いだ書誌学が、今やっと資料館にも受け入れられるようになったと、うたた感慨深いものがある。

2014年7月22日火曜日

信濃大町合宿


またまた長らく更新をサボっておりまして申し訳ありません。
実は、白州の家はすでに売却し、いまは五十年の昔から父の作った別荘のあった(そしてそこで私どもはみな夏を過ごしてきた)信濃大町の別荘村に帰ることにしたのである。ここは標高800メートル弱くらいのところだが、冷涼な高瀬川河岸段丘の緑陰で、軽井沢程度の涼しさに恵まれている。
今年の夏からは、こちらに隠遁して新しい本を書くことにしたのである。
その大町の山荘に、金沢からテノール歌手でもある北山吉明医師夫妻、またいつもお世話になるピアニストの五味こずえ君を迎えて、来年5月20日に開催予定の、第二回金沢コンサートのための練習合宿をした。
合宿といっても、お客人たちは近在のホテル等に宿泊して、拙宅では練習に励んだ。来年はまた新曲をあれこれ出そうというので、大張り切りである。
帰りがけに、信濃大町名物として良く知られた昭和軒のソースカツ丼をみなで食べに行った。いまはこの店も二代目になり、先代の女将さんが作っていた時分のそれとはずいぶん風情も変わったけれど、名代のカツ丼ソースは健在で、このたっぷりのボリュームといい、あっさりと揚がった風味といい、美味しさは相変わらずであるところが嬉しい。
かくて楽しい大町声楽合宿も無事終了。これから私は新著の書き下ろしに入る予定である。
写真、前列左から、北山夫人、五味君、私の妻、後列北山先生と私。

2014年6月17日火曜日

青春の影

大昔の写真を一枚お目にかけようか。
これは私どもが大学四年のときに(正確にいうと、私一人は留年しているので、大学三年であったけれど)、親友四人で卒業旅行(?)に箱根に出かけたときに撮った写真である。もともとこういうモノクロの写真なのだが、とても雰囲気があって私の好きな一枚。
 右端は、田崎誠君、彼は三菱商事に就職し、その後ずっと石油化学品関係の仕事をしてつい最近リタイアライフに入った。慶応の志木高校から経済学部卒。私とは大学のクラシカルギタークラブでの仲間として知り合い、大学時代からずっと親友であり続ける。今も折々会っては食事などを共にし、馬鹿話に興じることがある。彼は私と同様酒もタバコもやらないので、大いに共感するところがあるのである。
 私の左にいる美少年も、我が人生の心友で、奈蔵功修(よしのぶ)君(今は髪の毛が消失してしまったので、こういう風情ではないが・・・)。やはり経済学部卒だが、高校までは学習院のお坊ちゃんであった。実家が慶応大学のすぐ裏手のようなところにあって、一生食うに困らない、まあ銀の匙を銜えて生まれてきたという人であろう。彼はもともと田崎君の友人だったのが、いつのまにか仲間になった。その後、同門で観世流の謡曲を学び、なにかと私人としてのつきあいが深い。大学卒業後は三井物産に入ったが、比較的早い時期に早期退職して悠々自適、今はお茶の宗匠のようなことをやって人生を楽しんでいる。現在は私の主宰する句会「夕星(ゆうづつ)俳座」の有力なメンバーでもある。
 左端は渡辺和朗(かずあき)君。彼は商学部を卒業して、日興証券に入り、ずっと経済畑を歩いたが、一時ロンドンに駐在していたころは、折々その寓居におじゃましたものであった。奥方も慶応の文学部で、家族ぐるみのお付き合いとなっている。今はもうリタイアして大磯の邸で庭いじりでもしていることであろう。最近は会わないが、さて元気であろうか。この四人のなかでは唯一の大酒飲みである。好漢自重して健康ならんことを祈る。
 人生の幸福の一つには、良い友を得ること、ということがある。その意味では、私の人生はまことに幸福であったと、彼らに巡り会えた慶應義塾大学に、いまさらながら感謝するのである。

2014年6月8日日曜日

金沢コンサート



たいへんに、たいへんに、更新をサボっておりまして、申し訳ありません。前回は3月の更新であったものが、いまや6月になってしまいました。またこれからは少し本腰をいれて更新しようと思います。
 さて、さる5月28日、金沢アートホールにおいて、同地の外科医にしてテノール歌手という北山吉明先生と二人で、たのしいコンサートを開いた。
 ピアノは、いつもお付き合いくださる五味こずえ君と、北山先生の伴奏者として中田佳珠(かず)さんのお二人がこもごも弾いてくださった。
 プログラムは、次のとおり。演奏者名のない曲はデュエット。

第一部
 朧月夜  高野辰之作詩  岡野貞一作曲 上田真樹編曲
 夏は来ぬ 佐佐木信綱作詩 小山作之助作曲 上田真樹編曲
 鉾をおさめて(林) 時雨音羽作詩 中山晋平作曲
 くちなし(林) 高野喜久雄作詩 高田三郎作曲
 かごかき(北山) 貴志康一作詩・作曲
 佃煮の小魚(北山) 井伏鱒二作詩 中田喜直作曲
 げんげ田の道を  林 望作詩 なかにしあかね作曲・編曲
 行け、わが想い(北山) 林 望作詩 伊藤康英作曲
  愛の挨拶(中田=ピアノ・ソロ)
 吾が子よ(林)林 望作詩 二宮玲子作曲=新曲初演
 夢の子守歌 林 望作詩 伊藤康英作曲
第二部
 あんこまパン 林 望作詞 伊藤康英作曲
  第一楽章 信じてくれないだろうなあ・・・
  第二楽章 材料
  第三楽章 サンドイッチ用のパンに・・・
 蝉の鳴く日は(『めぐる季節に』より) 林 望作詩 伊藤康英作曲
 われは海の子  文部省唱歌 上田真樹編曲
 野菊     石森延男作詩 下総皖一作曲 上田真樹編曲
  月の光(五味=ピアノ・ソロ) ドビュッシー作曲
 アルヒダノス  ウエールズ民謡 M・H・ジョーンズ英訳 上田真樹編曲
 猫の二重唱  ロッシーニ作曲
 アロハ・オエ リリウオカラニ王女作曲 林 望作詩 上田真樹編曲
 (アンコール)花  武島羽衣作詩 滝廉太郎作曲(自筆原譜版による)

 以上の通りの演奏であったが、いや、実に実に楽しい演奏会であった。場内もみなさん大盛り上がりで、『あんこまパン』などは、ふたりで漫才よろしく掛け合いの形で歌ったところが、爆笑また爆笑、上記の写真は、そのときのリハーサルの模様である。こういうふうに、二人で掛け合いで演奏するという試みも、この曲のばあい非常に効果的であったろうと思う。ピアノは、北山先生の独唱は中田佳珠さん、私の独唱は五味こずえ君が担当し、二重唱は主に五味君が弾き、一部中田さんにお願いするという形で分担した。
 三番目の写真は、舞台の袖で開演前に記念写真。
 あまりに楽しく、また、お客さんの評判もことのほかに良かったので、はやくも第二回のジョイントコンサートを企画しているところである。こんなコンサートを東京でもやりたいが、はたして金沢のようにお客さんが集まるかどうか・・・。
 

2014年3月25日火曜日

オペラMABOROSI

さる22日、23日の両日、甲府市の甲府コラニー文化ホールの小ホールで、新作のオペラ「MABOROSI」の初演が行われた。
これは、二年ほど前から計画が進み、私が台本を書き、二宮玲子さんが作曲をし、松本重孝さんが演出を担当するということで初演にむけて稽古が進んでいたものである。
写真は、その本番当日、舞台を背後に撮影したもの。
この作品は、源氏物語の「御法」「幻」の両巻、つまり源氏の最晩年と紫上の死を描くところだけを抽出して脚色したもの。
しかし、この両巻は、源氏物語のなかでも、もっとも哀れ深いところで、原作のなかでも名文で綴られている。
第一幕は御法、すなわち紫上の死去の場面。
第二幕は幻、すなわち紫上死後の一年間、源氏が悲しさに呆然としてすごす一年間を描きとおす。
作曲はまことに卓抜で、オーケストレーションも見事なものであった。
昼の部、源氏本岩孝之、紫上小林沙羅、夕霧布施雅也、中宮鵜木絵里ほか
夜の部、源氏鹿又透、紫上佐藤路子、夕霧山本耕平、中宮二見麻衣子ほか
というダブルキャストで上演された。松本演出の手練、また裏方を支えたThe Staff社の職人技、そして指揮者小森康弘の熱演も見事であった。
新作ながら、これで終わりというような作品ではなく、きっとこれから全国であるいは世界に打って出ての再演再々演など、日本オペラのスタンダードになっていくように、ますます努力精進を重ねたいと思う。

2014年2月27日木曜日

雪国山形へ


雪の山形市へ行ってきた。
むろん仕事で、今回は山形市役所の職員研修の一端としての文化講演会ということで、源氏物語の面白さについて話してきた。
さすがに、この季節の山形まで車で行くというのは、万一また大雪でも降ったときのことを考えると、リスクが多すぎるということで、異例中の異例ながら、新幹線で往復することにした。新幹線に乗るのも何年ぶりであろうか。
大宮から乗るときには暑いほどの陽気で、これはしまった車でいけば良かったと思ったのだった。郡山を過ぎるあたりまでは、雪も先日の大雪の名残がそこそこ残っているという程度であったけれど、福島を過ぎるとどんどん雪景色になり、米沢に入る前の山中の鉄路は分厚い豪雪に覆われて、まったく春の気配もなかった。そうして、山形市についたときは、蒼く黄昏れる夕景色が、どこまでも「雪国」なのであった。やはりこれは車は無理だったかなと思いつつ、その日は暮れた。
翌日、講演も無事終了し、帰途の列車の時間まで二時間ほどあったので、旧県庁舎を見物し、それから町の旧市街をそぞろ歩いて見物してきたが、ほとんど古い町並みは残っていないのであった。途中小腹が減ったので、町のそば屋に入ってもりそばを食べたが、ぼそぼそと堅いばかりでちょっとも美味しくなかった。とくにつゆがいけないなあと思いつつ、半分残して出た。
帰りの電車は夜だったので、なにも見えないから、ずっと居眠りしながら帰ってきた。
結果的には、高速道路などは除雪はできているし、主要街道も問題なく除雪が済んでいるので、車で行く事もできたが、それは結果論というもので、もし大雪が降ったら、あの雪国では立ち往生したかもしれぬ。
ともあれ、もっと良い季節、新緑のころにでも、また訪れて少しは旨いものも食べたいものだと痛感したことである。

2014年2月16日日曜日

バレンタインの豪雪


今年のバレンタインデーは、とんだ豪雪になった。
この日私は、神田の竹尾という紙商社にいて、竹尾賞というデザイン関係の本の審査に当っていたが、午後中雪は降っていたものの、神田あたりはまだ積もるという状況ではなかった。
ところが、五時前に帰途についた時分には、はやくも新宿あたりの道路が冠雪しはじめており、環七、環八と下って行くにつれて、雪はいよいよ深くなってくる。降ってくる雪もあたかも吹雪のごとく、暮れて行く小暗さのなか、ますます雪はひどくなってきた。
小金井に着く頃には、もうそこらじゅう雪の原で、あらゆる道はすっかり冠雪し、その上をチェーンを装着した車が走っているせいで、でこぼことひどい悪路になっている。
私は四駆車にスタッドレスを装着して乗っていたので、それほどの危険は感じなかったが、それでもそろそろと30キロ以下で安全に走行してもどった。
それから深夜にいたるも雪は衰えず、夜中になるころには、ついに積雪は40センチを越えた。つい一週間前にも同じくらいの雪が積もって、雪かきに骨を折ったというのに、またもやこの豪雪で、ともかく雪がやむまでは静観ということにした。上の写真は自宅の二階窓からの写真で、隣の駐車場に置いてある車がもう埋もれているばかりか、隣家の塀も半ば埋まっているのが見える。こんな雪国のような景色は見た事がない。下の写真は、玄関前に置いてある車ごしに向かいの家を撮影したものだが、屋根や木々の上の雪の深さが観察できる。そして車は羽布団でもかけたように雪にこんもりと被われてしまった。
観測史上最高の積雪というニュースに、それはそうだろうと思わず納得。忘れ得ぬバレンタインデーになった。

2014年2月14日金曜日

アクシデント

いやはや、大変に長らくのご無沙汰で申し訳ありません。
さて、きのう私は浜松の浜松市立高校というところに招かれて、若いころに挫折を重ねたことを話してきました。じっさい、二十代のころの私は、なにもかも志どおりにいかず、就職もなんどもなんども失敗で、なかなか辛い時期でしたが、今から思うと、それが私の運命であったろうと思います。
私の話が高校一年生の心にとどいたかどうか、それはよくわかりません。
ところが、この講演をするために、市立高校に到着し、大きな資料の鞄を手にもって玄関を入ろうとしたところ、なんとしたことでしょうか、玄関の泥落としマットに足を取られてばったりと転倒してしまいました。ちょうど一塁ベースへのヘッドスライディングというような格好で、盛大に倒れ、しかし幸いに反射的に両手が出て、わりあいにソフトランディングしたので、骨折とか腱断裂とかの重大な怪我には至らず、ただ全身の筋肉痛と、手で着地したところの手のひらの内出血だけで済んだのは、まことに幸いでありました。
その場ですぐに湿布と氷で冷やしたことも奏功したのか、痛みや腫れなどはまったくありません。しかしそれにしても、一歩間違えれば骨折とか、アキレス腱断裂とか、歯を折ったりとかの大事故に至る所でした。
結局、これが老化現象というもので、歩いているときにも重々足先に意識をして、ちゃんと爪先を上げて歩くことが大切と悟りました。
きょうはまた大雪。せいぜいまた転ばないように気をつけなくては!
林 望

2014年1月8日水曜日

ついに読了

一月六日午後、『謹訳源氏物語』の朗読を、ついに読み終えた。2010年の9月から朗読収録に着手、それから毎月だいたい三回のペースで読み続けてきた。途中、本の刊行が収録に追いつかれてしまい、半年ほど放送を中断した期間を設けたりもしたが、その後、再開。この日、すべて無事読了した。一回の放送は25分ほどだが、前後の枠を除いて正味20分弱。これを466回分朗読したのであった。一回の収録には四時間をかけて、だいたい八回ずつとった。最初はちょっと声が疲れるところもあったが、次第に、発声の研究をして、ベルカント発声で淡々と読んでいくとのどがまったく疲れず、それどころか、だんだんと声帯の調子が整ってきて、四時間終えたあとでは、自由自在に歌を歌えるような状態になっていることを発見。これはすごい発見であった。正しい姿勢、正しい発声、それが朗読にはなにより必要であることを見つけたのは大いなる成果であった。
最終回の最後の一行を読むときには、なんともいえない感慨があった。
それが終わって、スタッフたちから、月桂冠と金メダルの授与があり、記念写真を撮った。左から、収録担当の山脇君、ミュージックバードの高木君、同局のアナウンサー兼プロデューサで、わが長年の畏友たる田中君、私、収録担当の荒ヶ田君、そして右端が祥伝社の担当編集の栗原君。
現在その朗読番組はひきつづき放送中だが、いずれこれを放送だけでなくて、なにかの形でCDかデータDVDか、ネット販売か、形を決めて一般に発売できないか、研究中である。