2011年12月29日木曜日

曽祖父の面影

 昨日、亡父の遺品などを整理していたところ、思いがけず古い写真が出てきた。そのなかに、私の曽祖父、林譲作(字【あざな】は善鼎【ぜんてい】)の肖像写真があった。この曽祖父は、父林善継、母は柳田氏、安政二年、江戸に生まれた。明治五年、当時まだ東京の明石町(現在の聖路加病院のあたり)にあった海軍兵学寮に入り、十四年海軍少尉任官、以後十九年大尉を拝任して参謀本部局員となり、二十一年には海軍大学校教官に補せられた。そうして、二十三年、フランスで建艦されていた戦艦厳島の受領回航員に任ぜられて、同艦を回航中に、運悪く腸チフスに罹り、アデンで病没した。したがって、今もその墓はアデンにあるそうである。この譲作の娘の貞【てい】が私の祖母である。このまま譲作が無事帰国していたら、おそらくはあの日本海海戦にも、秋山真之らと並んで、参謀として三笠に乗り組むくらいの地位にあったかもしれぬ。あるいは、連合艦隊のいずれかの艦長にでもなっていたか・・・いずれにしても、間違いなく将官に昇るべき逸材であったらしい。私の書室には、この譲作が兵学寮時代に作った物理や代数の勉強ノートが残っているのだが、その几帳面な筆跡からみて、ごく真面目な青年だったらしく思われる。運命の不思議さは、譲作が若くして病没したために祖父が入り婿としてやってきたわけで、そうでなかったら、また全然別の家族が形成されていた・・・つまりは私もここには存在しないのだから、世の中というものはまことに面白い。

2011年12月16日金曜日

謹訳源氏物語第七巻

 『謹訳 源氏物語』の第七巻が、やっと刊行になった。
 この巻は、柏木に始まって幻に終わる。すなわち、位人臣を極め、天皇に準ずるほどの高位に昇って、何不自由ない立場になった源氏が、しかし、思いもかけず柏木によって、正室の女三の宮を犯されて子供が産まれてしまうというとんでもないことになる。藤壷との密通は、こうして因果応報の結果を招くのであったが、その柏木を、真綿で首を締めるようにして、死に至らしめる源氏の恐ろしさ。そんなことがあって、いよいよ世を捨てたいという思いに駆られながら、しかし、浮世のしがらみから脱することもできず、三の宮も出家し、最愛の紫上は亡くなってしまう。源氏の晩年は、そういう急坂を下っていくような懊悩の日々であった。この巻は、なかでも御法に描かれる紫上の死去前後の物語が素晴らしい筆の運びで、源氏全体のなかでも白眉だと私は思う。もののあはれの横溢する、その御法に続いて、一人残された源氏が、落莫たる一年を送るその十二ヶ月が、幻の巻で、これが大晦日で終わる。次の巻、雲隠には本文がなく、その次になると、もう源氏の死後、子孫たちの物語になるから、事実上、この幻をもって源氏の物語は終わる。実に読みごたえのある、見事な結末である。もしまだお読みでないかたは、この際ぜひ、第一巻からご一読願いたい。あるいは、若菜の巻(第六巻)から読み始めるという行きかたもあるかもしれぬ。

2011年11月30日水曜日

父死す

 二十九日未明、父林雄二郎が忽焉として世を去った。享年九十五歳。死ぬ一時間前まで元気に歩いていたが、その直後にまるで羽化登仙か、禅侶の示寂かというように、苦しみもせず、痛みもなく、ただ微笑裡に霞の彼方へ去った、とでも評したらよかろうか。わが父ながら、天晴れ見事な大往生であった。
 この父は、東京工大の電気化学科を卒業した技術者であったが、戦時中は軍属としてジャワに駐在し、戦後、帰国して経済安定本部を振り出しに、政府の経済計画畑を歩き、いわゆる所得倍増計画に参画して、戦後の復興に力を尽した。フランスに留学して計画経済を学び、官僚としては経済企画庁経済研究所長を務めたが、やがて転じて東京工大に社会工学科を創始してその初代の教授となった。時に、梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊らと携えて社会の未来予測の方法について考え、日本未来学会を樹立するなど、世には未来学者として知られた。今は普通に使われている「情報化社会」という言葉はこの父が創った造語である。さらに転じて、トヨタ財団創立の専務理事、東京情報大学創立の初代学長、さらに日本財団特別顧問などを歴任して、八十歳を過ぎてもなお矍鑠としてフィランソロピーの確立のために先頭に立って働いていたのであった。さすがに齢九十を越えてはすべての公職を退いて悠々自適、ただ散歩と読書のみを楽しみに余生を過した。
 ただ、その昔、もう五十年ほどの以前から、父は、「将来は日本も国際化しなくては立ち行かぬ」「やがて都市は二十四時間眠らないようになる」「主要な都市には地下に大きな町ができる」「手のひらに乗るような小さな通信機が普及してどこでもだれでも通話できるようになる」など、いつも私どもに教え諭したが、果たしてそれはすべてその通りになった。
 この父は、私ども子供にとっては、なかなか良い父親であった。第一に、私どもがどういう道に進もうとも自由だといって、一切の掣肘を加えることがなかったばかりか、私が慶応義塾の国文科に進んだ時、「文学も大いに結構だが、どうせやるならとことん勉強して博士課程まで修めるように」と言って、三十歳になるまで何も言わずに養ってくれたのは、青年時代に学問の基礎を学ぶためには、なによりの親の恩であった。いわゆる厳父というのとは違って、自由闊達な父であった。母を先立たせてからは、もっぱら私ども次男一家とともに過し、晩年は、父の生活は、なにもかも私の妻が面倒を見ていたので、父は私の妻をさして「これが私の母親だ」と、嬉しそうに話し、妻の言うことはよく聞いてくれた。そして今生の最後に言葉を交わしたのも、この妻とも子である。
 その最晩年まで含め、総じて、まことに良き父、愛すべき男であった。
 写真は、いまから二十五年前、私どもがイギリス留学中に、ヨーロッパの学会へ出たついでにロンドンまで遊びにきたときのスナップである。大英図書館の近くの道を歩いているところで、後ろにいるのが父。そしてその前に、私の息子大地と、娘春菜が写っている。この二人の孫も今ではすっかり大人になって独立し、父からみれば曾孫に当る子供も四人得た。懐かしい写真である。
 冥福を祈る。合掌。

2011年11月14日月曜日

レンコンの天ぷら

 次に、レンコンの天ぷらを作った。
 天ぷらは、あまり食べないようにしているのであるが、レンコンは、とりわけ天ぷらにすると旨いので、こればかりは作らずにはいられない。といっても、私の天ぷらは衣に味を付ける行きかたで、この衣は、小麦粉と冷水と、僅かの塩と胡椒で作る。卵は入れない。そしてレンコンは、しばらく酢水につけてアクを抜き、よく水気を拭きとってから衣に潜らせて浅い油で揚げる。そして天つゆは用いず、そのままサクサクと歯ごたえを楽しみつつ食べるのだ。
 聞くならく、嵐山光三郎さんは、末期(まつご)の食事に何を望むかと問われたら、レンコンの天ぷらと答える由、ああ、なるほどそれは分かるなあという気がする。こうして一センチほどの輪切りにして天ぷらにしたレンコンは、熱くて旨し、冷えて旨し、生ぬるくても旨し、とじつにどうも天下の美味なのだ。
 この天ぷらの背後に茶色いものが写っているのは、酒粕の天ぷらである。これが、またじつに結構なもので、とくに酒飲みの人はぜひお試しあれ。

2011年11月13日日曜日

レンコンのきんぴら

 まずは定番のレンコンのきんぴらから。
 今回配送されてきたレンコンには、おまけとしてちょっと小さな「子レンコン」が添えられてあった。こういう小さいレンコンは、小口切りにして、美しい切り口をみせながら、はりはりとした触感もたのしいきんぴらにするにかぎる。
 この写真をみるとまるで皮を剥いてあるように見えるが、じつは皮は剥かない。
 しっかりしたタワシでゴシゴシこすって流水で洗うと、皮の一番外側の黒い色が落ちて、瑞々しい肌になる。で、このまま料理するのである。そのほうが、栄養も失われず、歯ごたえも良く、風味もいちだん勝るように思える。
 そうして、薄切りにしたのを、10分くらい酢水につけてアクを抜き、すぐにきんぴらにつくる。作り方は、ここにあたらめて書くまでもない。が、こういう良いレンコンを得たときは、味を濃くし過ぎぬことが肝要で、今回は、減塩醤油であっさりとした味付けに作った。

2011年11月12日土曜日

レンコン三昧

 なにを隠そう、私は人も知る大のレンコン好きであって、この地味なる野菜を愛好することひとかたでない。
 ただ野菜として好きだというだけでなくて、医食同源の立場からして、これは欠く事のできない食養生の薬なのだ。
 レンコンというものは、まず、ビタミンCを大量に含有し、しかも、それがレンコン独特のでんぷん質に保護されているために、加熱してもあまり壊れないという特徴があるのだそうだ。また、食物繊維に富み、カロリーは低く、さらにはポリフェノールも豊かに含んでいるんだそうで、およそ体には非常に良いもの。とくにまた漢方のほうでは、レンコンは気管支とか咽喉、声帯など上気道の薬として著効のあることが知られ、これを乾燥して粉末にしたものは、香蓮といって、声帯の妙薬である。
 いまこの季節は、喘息傾向のある私には、レンコンと梨が欠かせない食物である。で、どこかに安全で良いレンコンはないかと探した結果、逢着したのが、徳島の篤農家久保ファームの作っているレンコンであった。さっそく取り寄せてみると、ご覧のように立派なレンコンで、これが東京のスーパーで買うのよりも安い。味は比べ物にならぬくらい、こちらが上等である。ただし、今年は台風の影響で肝心のときに葉が傷んでしまい、作柄は例年に比べるとうんと落ちるのだと、久保さんは残念がる。例年だったら、とてもこの程度ではないのだそうだから、これは来年が楽しみというものである。
 これを私は頻繁に取り寄せて、ほとんど毎日レンコンを食べる。
 そうすると、たしかに気管支が楽なのは不思議なくらい。そして美味しい食べ方をいろいろ研究中である。じっさいの料理した写真などは、また次回に。

2011年11月3日木曜日

源氏、垣間見の視線


 十一月になった。一日早々から、雑誌『いきいき』主催の、源氏物語についての連続講演をしてきた。この講演シリーズも、もう第五回となった。今回も、会場は神楽坂の出版クラブという渋いところで、五十人ほどの聴衆とともに源氏の面白いところをともに味わった。この会衆は、ほとんどが毎回参加のリピーターの方々で、非常に熱心な空気が、話していても楽しい。まず毎回、ほぼ女性ばかりである。写真でいっしょに写っている方は、ハーブ研究家で、園芸家・随筆家としても高名な桐原春子さん。この講義に毎回参加されて熱心に聴いてくださっている。上の写真は、その桐原さんの最新のご本で、自邸のお庭の植物たちとの日々をつづった、また美しい花々の写真満載の楽しい一冊。

 さて、五回目の今回は、『垣間見(かいまみ)の視線』という題目で、源氏物語のなかにしばしば出てくる「垣間見(覗き見)」というモチーフを取り上げ、空蝉、野分、若菜上、御法の各巻から、おもしろい垣間見の読み所を抽出して、どこをどのように読むべきか、ということを詳しく解析しながら、それを空間的に想像してみるという方法をとった。そういう風に解析して味読してみると、この物語がいかに緻密に周到に、また十分な構想力をもって書かれているかということが痛感される。例によって、講釈の一時間半はまたたく間に過ぎた。

2011年10月19日水曜日

九州の秋


 先週末、福岡へ講演に行ってきた。九州市民大学という催しの講師として行って、古典文学のことを話した。1500人も収容できる大ホールが満席になっていたのはびっくりしたが、みな熱心に聞いてくださったことに感謝したい。
 その日は時間が遅くてもう帰京するすべもなかったので、そのまま博多にもう一泊し、翌日の日曜日に糸島半島から唐津あたりを逍遥して、秋らしい風景に際会し、また素敵に新鮮なイカの刺身を食べた。
 上の写真は、糸島志摩の鹿家(しかか)という在所の秋の田の風景で、いまどきはいくらか珍しくなりつつある、ハサ掛けした稲束が美しかった。コスモスが花盛りであった。
 下の写真は、唐津浜玉というところの「おさかな村」という市場の二階にある食堂で、「活き烏賊トッピング丼」というのを食べたので、撮影してみた。イカが、ピカピカと透き通っていて、実に新鮮。今の今まで活きていたイカでないと、こういうふうにはならぬ。ああ、おいしかった。

2011年10月18日火曜日

鳥取の海から

 最近、ネット上を検索していて、とても安全で美味しい魚を食べられそうなサイトに逢着し、さっそく取り寄せた。これは鳥取の河西信明さんという漁師さんが、弁慶丸という漁船を駆って近海で捕った魚を、朝獲れの新鮮なところで即座にトロ箱に詰めて冷蔵便で急送してくれるというものである。河西さんは、しばしばテレビなどでも取り上げられているらしいのだが、私は不覚にもいままで知らずにいた。根っからの漁師というわけでもなくて、大学を卒業して、サラリーマンを経験したあと、一念発起して漁師になったという変った経歴の主なのだが、それだけに魚の安全に対する信念は半端ではなくて、魚の安全を教えるセミナーなども開催しているらしい。
 さて、到着した魚は、ミミイカという小さなイカ、キンキ、ノドグロ、そしてカレイ、という顔ぶれであった。到着した昨日の夕方には、さっそくノドグロを塩焼きにして、またミミイカは、たたきと、オリーブ焼きと、ゲソの煮付けにして食べた。いずれも鮮度抜群で実においしかった。新鮮な魚は匂いが違う。生臭い感じがないのである。そして今日は、写真の大きなカレイをオーブンでローストして食べたが、これまたじっくりと脂が乗っていて、なんともいえず香ばしい焼き上がりであった。美味しい魚は、結局料理は単純な塩焼きとか刺身がもっとも美味しいのである。
 もともと魚が大好きで、およそ何の魚でも嫌いということがない。とりわけて、鯖とかカレイなどは、大好物。イカはまたイカマニアというも可なるほどのイカ好きで、かつて『烏賊の十徳』という烏賊賛美のエッセイを書いたことさえあるほどなのだ(拙著『是はうまい』所収、平凡社)。
 このカレイは、肉厚で、ほんとうに香ばしい匂いがあって、皮も肉もまたとなく美味であった。夫婦でつついて食べ終わって、あとに残った骨や頭で骨湯を作って啜ったが、これも結構なことであった。カレイのような底物は、ややもすると悪食のせいもあって匂いが悪いことがあるのだが、これはそうではなかった。日本海の清らかな海水で育ったカレイ、いかにもそんな感じがして、大いに舌鼓を打った。こうして安全な魚が食べられることを、天に感謝しなくてはなるまい。

2011年9月27日火曜日

嗚呼、秋!

 長く暑い夏がゆき、驚くような野分(のわき)が襲ってきて、日本中が水浸しになり、暴風に吹かれたが、さて、その後には、これぞ日本の秋、と詠(なが)めたいような、美しく快い日々がやってきた。
 これで原発から出る放射能がなかったら、どんなに気分は爽快だろうかと思うけれど、無責任な政府や官僚、金の亡者のような電力会社、そして志を喪った似非科学者たち、さらに、何も考えようとしない拝金老耄経営者たち、こんな善い秋の日に、それを無条件で楽しめなくしてしまったのは、誰か。この晴天のもと、のびのびと校庭の運動会を楽しめない子供たちに、ほんとうに申し訳ないと思わないか。
 それでも、秋の空は美しい。
 源氏物語を読んでいると、千年前も秋の空は美しかったことがわかる。
 ならば、千年後も、この美しい秋空を子々孫々に残さなくては、御先祖さまに申し訳がたたぬ。どうか、一日も早く、政治家たちが迷妄から覚めて、一致協力して原発をなくした立国をめざして欲しいと切実に思うのだ。
 首都高速を珍しく走った。そうしたら、こんな絵のような雲が、空を彩っていた。まるでルネ・マグリットの絵のような、不思議な空の景色。思わず、運転しながらパチリと一枚撮った。

2011年9月13日火曜日

料理の仕事

 きのうは、久しぶりにまた料理の仕事をした。今回は、雑誌クロワッサンの依頼で、簡単で美味しい料理ということで、秋らしい素材ということを意識して作った。献立は、
  煎り豚肉と枝豆とパイナップルの洋風ばら寿司
  セロリと茹で鶏と梨のサラダ
  茄子の味噌粕煮
  ジャガイモと豆乳とキノコのポタージュ
 まあ、こう書くといろいろ大変なようだが、料理そのものはいずれも簡単で、雑誌取材のための写真撮影などがなければ、全部で三十分もあればできる。
 どれもとても美味しくできてよかった。
 この料理は、来月発売くらいのクロワッサンにレセピを含めて詳しく出るので、乞う御期待!

2011年9月11日日曜日

稲童(いなどう)の月見


 きょうは北九州の行橋というところへ行って、講演をして戻ってきた。
 この行橋市は、大分県との境に近いところであるが、その稲童というところに、地元の画家原田脩の作品を展示顕彰するために、地元の有志がみなボランティアで力をあわせて作ったという美術館がある。
 ごらんのような、水田の豊かなところで、折しも豊年満作の稲穂が垂れ、そして中秋の名月を明後日に控えた、佳日であった。
 私は日本文学のなかで、日本人はどのように月を眺めてきたか、という話をした。よい海風が吹いて、心地の良い夕べであった。

2011年9月4日日曜日

謹訳源氏全巻朗読

 この十月三日から、東京エフエム系の衛星ラジオ局ミュージックバードから、わが『謹訳源氏物語』を、始めから終りまで、ぜんぶ私自身の朗読で読み切ってしまおうという、壮大な連続朗読番組がオンエアになる。ただいま、そのための録音を進めているところだが、これが言うは易く行うは難いのだ。一回の収録で四時間、ほとんど読みどおしに読んでいるので、さすがに声帯の耐久力が限界に近い。
 それでも、秋になってキンモクセイが咲く頃には、毎年私はアレルギーで声が出なくなるので、今のうちにできるだけ録り溜めをしておかなくてはならない。
 七巻以後を書き進めるのも、それはもう呆れるほど大変な仕事量なので、そのかたわら朗読をすすめるというのは、ほんとうに大変だと、つくづく思いながら朗読収録を進めているところである。
 この番組は、くわしくは「最新情報」のコーナーにデータを掲示するので、それをごらんいただきたい。ただし、この局はふつうのFM受信機だけでは聞くことがきず、専用のデコーダが必要になる。もっともローカルFM局にも配信するので、場所によってはそちらのほうでお聞き頂けると思う。ただし、ネット配信もするというし、また後日電子ブックのような形でダウンロード販売するという計画もある。当面は、ローカルFMまたはネット上でお聞き頂けるかと思うので、また詳しくはこのHPの告知をご覧いただきたい。

2011年8月29日月曜日

諏訪の秋

 昨日28日、名古屋の能楽堂で、衣斐正宜師の『松風』で、解説に名古屋まで出向いた。松風は、秋の風情横溢する、実に美しい名曲で、能も結構に堪能させていただいたが、例によって名古屋までは車で往復した。
 27日の夕刻に諏訪湖SAで一服した折、すぐ脇の斜面が一面の薄であった。
 信州の高原の秋は早く、東京はまだ残暑だが、諏訪はもう秋一色となっていた。
 うれしくなって写真を撮ったのがこれである。もっとも、帰路は、夏休み最後の週末とあって、上り線は大渋滞で、五時に名古屋を出たが、結局帰宅したのは午前二時になっていた。

2011年8月20日土曜日

スコンと音楽


 今日は珍しい客人を迎えて、久しぶりにスコンを焼いた。
 このスコンは、私がいつもロルフィングでお世話になっているロルフィングの名手中村直美さんが、岩手のご実家の畠で、自分で育てたという南部小麦を粉に碾いたものをおすそ分けに与り、それを用いて焼いたものであったが、この粉にはよく合っているらしく、すばらしく美味しく焼けた。
 さて、その珍しい客人というのは、作曲家のなかにしあかねさんと、ご夫君で高名なテノール歌手の辻裕久君である。じつは、このたび、なかにしさんが新しく出す合唱曲のために詩を書いて欲しいということで、『げんげ田の道を』という素朴なソネット形式の詩を贈った。それに作曲ができたので、きょうはその実際に音出しをしながらの、最終調整を行ったのであった。この際、辻君も応援に来てくれて、三人でああでもないこうでもないと、まことに楽しい創作作業をやったところである。
 この合唱曲は、遠からず「Harmony for Japan」プロジェクトというところから刊行される予定である。
 私の詩は、じつは萩原朔太郎へのオマージュのようなつもりで書いたもので、ちょっとその「本歌取り」になっているのである。気がつく人がいるかなあ。
 なお、この詩は、息子の大地が英語詩に訳してくれたので、面白いことに、合唱曲として、日本語でも英語でも、両方で歌えるように作曲されている。きょうはその英語詩の譜割などの調整に、長い時間を費やしたが、面白いアイディアが実現して、それはちょっと楽しみに思っているところである。

2011年8月16日火曜日

天網恢々

 源氏物語に日々邁進しているこの頃ながら、同時進行で進めていた時代小説『天網恢々 ---お噺奉行清談控---』がこのほど単行本としてリリースされた。
 たぶん16日から店頭に並んでいるはずである。
 これは江戸時代中期の南町奉行根岸肥前守鎮衛が主人公の、まあいわば捕物帳小説である。かねてこういう小説を書くのは好きで、いくつか単発で短編小説を発表しているのだが、今回は、とくにシリーズ化して、光文社の小説宝石に不定期連載してきたものの単行本化である。もし源氏の仕事がなければ、このほうをどんどん書き進めていきたい、と思うくらい、この主人公には熱い思い入れがあるのだが、いかんせん源氏と両立させながらの執筆なので、やっと一冊になったというのが正直な感想である。
 しかし、どうぞみなさま、騙されたとおもって御一読ください。ははあ、こういう世界もあるのかぁ、と納得していただける作品になったと思っています。

2011年8月15日月曜日

追悼、小泉佳春君

 この写真は2001年の12月に沖縄の石垣島で撮影したものだから、もう十年という月日が経った。こうして一緒に楽しそうに煎餅のようなものを頬張っているのは、写真家の小泉佳春君である。
 その小泉君が、まだ五十一歳という若さで、世を去った。二年ほどの壮絶な闘病の末に、かわいい三人のお嬢さんを遺して旅立った。
 小泉君は、私にとっては、写真というメディアをどう扱ったらいいかということについて、さまざまなことを伝授してくれた大切な師匠であった。かつて、日本自動車連盟(JAF)の機関誌、ジャフメイト、という雑誌で、六年ほど旅の連載をやっていたことがある。この写真も、その時の旅の一コマである。まだよい時代で、毎月、三泊四日の撮影取材旅行に行っては、自由に歩き回り、あれこれ美味しいものを食べ、よい風景を探してさまよい、そして私は紀行エッセイを書き、小泉君は、その文章と見事にマッチしながら、しかし、一個独立の風景写真として見事な仕上がりの写真を撮ってくれた。ここで、こういう意図で、こんな図柄の写真が欲しいんだよ、と大体の意図を話しておくと、小泉君は、万事を了察して、四方駆け回ってはベストポジションを探し、シャッターチャンスを根気強く待ち、あるいは、夜明け前から起き出して、ともかく結果的には毎回素晴らしい写真を撮ってくれたものだった。なるほど、こう撮ったかあ、と毎回感心することばかりであった。この旅の仕事は『私の好きな日本』(ジャフメイト社)『どこへも行かない旅』(光文社)の二冊に分けて単行本化された。ほんとうはもっと印刷の質のいい形で写真を出して上げたかったが、諸般の事情で、かならずしも小泉君には満足の行かない画質になってしまったことが、今悔やまれる。
 その前にも後にも、小泉君のように仕事のしやすい相棒はいなかったし、私は、どんな仕事にも、まず小泉君を写真家として指名することにしていた。またプライベートの写真なども気安く撮ってくれる、心の大きな、ほんとうによい男だった。
 昨日、そのお葬式があった。私はたいていお葬式は出ないのだが、ほかならぬ小泉君とのお別れとあって、珍しく出ていった。すると、小さな斎場なのに、会葬者はびっくりするほどの大勢で、会場から溢れ返って収拾のつかないような状態であった。ああ、小泉君は、こんなに多くの人に信頼され、慕われていたんだなあ、と今さらながら懐かしく思い出した。
 いつも笑顔の明るい、一緒に仕事をしていて、唯の一度も不愉快を感じたことのない珍しい珍しい男であった。
 好漢小泉佳春君のご冥福を祈る。合掌。

2011年8月5日金曜日

甘酒三昧

 このごろは、甘酒を非常に愛好して、毎日作って飲んでいる。
 甘酒といっても、本格的に醸して作ってるわけではなくて、酒粕を煮て作るのである。これが作ってみると、銘柄によってずいぶん舌触りも風味も違う。目下ベストな酒粕は、『A(特に銘柄を秘す)』という銘酒の粕で、これはフルーティな風味と、かなり強めのしっかりしたテクスチャーが大変に飲み心地がよい。しかし、それは滅多と手に入らない酒粕なので、残念ながら、もう無くなってしまった。そこで、目下のところは、『D(これも特に銘柄を秘す)』という中国地方の銘酒の粕で作って飲んでいる。酒粕は栄養的にもすばらしく、また免疫力を増強するというので、健康ドリンクである。
 甘酒というとなんだか冬の飲み物みたいだけれど、さにあらず、季語としては夏の季語である。これを冷たく冷やして飲むと、夏には好適、あのフウフウ言って飲む熱い甘酒とは格別の暑気払いになる。さてと、これからまた、おやつに一杯やるかな。

2011年8月4日木曜日

涼しく暮す方法

 きょうは、NHKの午後の番組、「つながるラジオ」に生出演してきた。
 この四月から一月に一度、レギュラーで二時間ほど出演して、『リンボウ先生のこれが私の暮らしかた』というのをやっている。
 その冒頭、三時十五分くらいから、毎回、「おやつのお茶」タイムを設けてあって、前回は、私の焼いていったスコンに、スタジオで林流紅茶道家元の私じきじきに万古焼の急須で入れたミルクティというあんばいだったが、今回は「涼しく暮す方法」という特集とあって、小金井市に燦然と輝く和菓子の星、わが愛して止まない三陽の麩饅頭を持参した。お茶はNHKのスタッフが御薄を立ててくれた。この麩饅頭はほんとうに美味しくて、私はつねづね愛好しているのだが、きょうはまたひんやりと冷やしたのを、三人でおおいに愉しんだ。
 ついでに旧暦の七夕の季節でもあるので、スタジオに笹を用意して、すっかり七夕モードの放送となった。
 この暑苦しい夏を涼しく暮すには、まず心の涼しさが大切だということが今日の結論。心頭滅却すれば火もまた涼しというものである。
 写真、上は、三陽の麩饅頭の箱。下は、左から柿沼郭アナ、石山智恵アナ、そして私である。

2011年8月2日火曜日

これぞ!

 さて、この真っ赤なインゲン豆のようなものはいったい何か。
 これぞ、わが手許で育てたグリーンカーテンのゴーヤの、その完熟した実の種である。ゴーヤというと、緑色で、中に白い綿のようなのがあって、そのなかに白い種がある、とそう思っている人が多かろうけれど、これが完熟すると、外は黄色くなり、中の綿は溶けてどろどろの粘液状になり、そして種はこのように真っ赤な豆のようになる。しこうして、この種を食べてみると、周囲のゲル状の部分は、甘くてちょっとだけ酸っぱくて、実に美味しいものだと発見。沖縄の人に聞くと、この種は沖縄バイアグラと呼ばれるくらいの精力剤なのだそうである。きょうは二三個食べてみたが、さてほんとうであろうかなあ。ははは。

2011年8月1日月曜日

初収穫

 この写真日記に、随時御報告をいたしておりました、わが家のグリーンカーテン用のゴーヤに、四つほど実がなり、そのうちの三つが完熟いたしましたので、きょう、はじめて収穫しました。
 ご覧のように、すっかり熟して黄色くなっているのもあります。
 こういうのはきっと種は真っ赤になっているものと想像されますが、沖縄の人に聞くと、その種は、「沖縄バイアグラ」と異名をとるほど強力なる精力剤なのだそうですが、さて種をどうやって服するのでありましょうか、肝心のそこのところを聞きそびれたために、いまだに服したことがないのであります、残念。
 しかし、経験上わかったのは、ゴーヤは非常に無駄花が多いことで、蜂もたくさん来ているし、人工受粉も試みたにかかわらず、ちっともならないという感じがあります。
 まあ十二本植えて四つなった(一つはまだ小さいので未収穫)となると、まあまあとせねばならないかなと思っているところです。
 そして、ゴーヤという植物は、非常に大量の水を吸うので、水をどんどんやらないと葉っぱがしおれてしまってあまりカーテンの役に立たないということもわかりました。それゆえ、来年は、ゴーヤではなくて、朝顔にしたほうがいいかもしれないと思っているところであります。
 なおこの三つのゴーヤは、たぶん、「しりしり(擦り擦り)」と呼ばれるジュースにして飲もうかとおもいます。

2011年7月30日土曜日

良心の叫び

 この画像は、次のURLで観ることができます。YouTubeの動画です。


 この動画は、東大の先端科学技術研究センターの児玉龍彦教授が、去る27日に衆議院の厚生労働委員会で参考人として証言した壮絶なる演説のすべてであります。
 私は、この演説をさる友人から教えられて見ました。そして、まさにこの、良心の叫びそのものの鬼気迫る演説に落涙を禁じ得ませんでした。ああ、東大の学者のなかにも、こういうまともな人がいるのだと、ほんとうに嬉しく思いました。
 そうして、かかる国家の一大事に、命がけで(真実命がけのことだったと思います)こういう演説をし、怠慢にして金権にまみれた政治家や原子力村の御用学者たちに痛棒を与えた、この事実を、すくなくともテレビのニュースはただの一言も報道しませんでした。新聞などはどうだか承知していませんが、まともに報道していないことは確かです。そのくせ、原発が稼働しないと日本が大変なことになる、というような、相も変わらぬ「原発推進利権派のプロパガンダ」を、日本エネルギー経済研究所が試算して発表した、などという記事は大々的に報じています。このエネ研というのは、現理事長も東大法科を出て通産官僚から資源エネルギー庁を経て天降った人物です。そういう人がやっている政府系研究所の試算には、大々的な注目をして、本当のことを勇気をもって証言して国家百年の将来を愁えてくださった真の愛国者の証言には、一顧だに与えない、そんな愚かな腐敗したジャーナリズムの姿は見るだに哀しいものです。この証言と、ナニガシの芸能人が妊娠しただの破局しただのという、愚にもつかないゴシップと、どちらが大切か、心ある人はみな見ています。
 政治家たちも、喪志の放送人も、おそらく歴史の指弾を受けるであろうと、今から長生きしてそのときを待ちたいとすら思います。
 どうか皆さま、この児玉教授の火を吐くような演説をご覧ください。そして一人でも多くのご知友に、これを周知してくださるように、ここから一つのムーヴメントが起こるように、そして、愛する日本の国が恐ろしい放射能にこれ以上汚染されないように、どうかお力をお貸しください。
 日本に、いや世界じゅうに、そもそも死の灰を処理する方法のない原発などあってはいけない、私はそう考えます。

2011年7月24日日曜日

BBS

 先日来、突然にわがBBSが読込めなくなってしまって、面食らっておいでの方もあろうかと思うので、ひとことお断り申し上げる。
 実は、このBBSはライブドアが管理運営していたサイトを利用していたのであるが、最近は、BBSという形はもう旧式で、多くの人がフェイスブックとかツイッターとか、そちらのほうに移行し、こういうサイトを運営しているメリットがなくなったせいであろう、ある日突然に打ち切りが宣言されて、これまでに書き入れられた夥しい文章もろとも、問答無用に削除消去されてしまったのであった。これに代るものを模索中であるが、当サイトを管理している番頭の話では、どうももはやこういうBBSのようなものはなくなってきているらしい。それで現在このところを閉鎖して、今後どうするか検討中ゆえ、当面はこの部分はなくなったものとしてご諒恕を庶幾う次第である。

やぶがらし

 人は笑うかもしれないが、私はこの写真のヤブガラシというつる草を愛好することただならぬものがある。その「薮枯らし」を意味する和名からみても分かるように、非常に非常に繁殖力の強い多年性の草で(それゆえ、園芸家はこれを蛇蝎のごとく忌み嫌って見付け次第に抜き捨てるけれど、ああ、そういう人は美しいものを見る目がないのであろう)、しかも毎年春に新芽を出して、夏には喬木の天辺にいたるほどの壮絶ないきおいで伸びる。この堂々たる生命力は、葉にも花にも漲っていて、どんな日照りにもピンと背筋が伸びているので、見ているとこちらも元気になるほど、すばらしい躍動感を感じさせてくれる。園芸品種の脆弱な植物が、せいぜい水をやり、肥料を施し、殺虫剤を撒いてやらなくては生き残れないのとは正反対に、何もせず、何もやらず、しかしこの草は独立孤高、まことに市井の片隅に生きて行くことを応援してくれるような気がする。昔からこの草が繁茂すると他の草木が枯れて、いかにも貧乏臭い感じがするというので、ビンボウカズラなどという名で貶められたりもするが、とんでもないことである。わが愛するヤブガラシは、若芽若葉は茹でで食用になり、豊富な栄養をもつばかりか、その根は烏斂苺(ウレンボ)という名の漢方薬剤で、鎮痛解熱などの効果がある。しかもこの花のなんと造形的で美しいこと!まるで現代芸術のように、見れども飽かぬ色と形を持っている。この草を私は決して抜かせない。そうして夏になって我が庭のマテバシイやナツユキカズラの上に這い登ってきて、時を得顔に陽光に輝いているのを見ると、ああ嬉しいなあ、きれいだなあと思うのである。

2011年7月18日月曜日

グリーンカーテン、その後

 ながらく更新を怠っておりまして、もうしわけありません。
 さて、先のこの日記で、グリーンカーテン用にゴーヤの苗を買ってきて、大仕事の植え付けをしたことを報告しておいたけれど、その後どうなったか。
 ゴーヤは非常に速やかに伸びて、たちまち背丈ほどにもなる。そこで天をつめてやると、脇芽が伸びて、より良く繁茂するという教えにしたがって、そのようにしているのだが、おもったほどには「カーテン」状態にはならない。なんだか葉っぱがちらほらしているという程度で、あまり遮光性は著しくないのであった。
 まだこの先多少は繁茂するであろうと期待しているところなのだが、はやくも実がついた。花はたくさん咲くのだが、あんがいと実らない。歩留まりは非常に悪くて無駄花がおおいのがゴーヤの特色らしい。
 それでも現在、12本うえた苗に、三個の実が成っている。
 なにしろ、日差しは強いところへもってきて、植木鉢なのでどうしても保水が弱く、すぐに葉がしおれる。一日に三回も水をやらなくてはならぬ。
 やれやれ、これではやはり地面に植えないと思ったほどには育たぬのだろうかと思いつつ、ひたすらゴーヤ君に励ましの言葉をかけているところである。

2011年7月4日月曜日

慶応女子高の教え子たち

 七月二日の土曜日、慶応女子高でかつて私が教えた教え子たちが集まって、私の講話を聞く会を開いてくれた。去年にも開催したのだが、またやろうというので、二十人あまり、忙しいなかを集まってくれた。和気靄々、じつに楽しい空気がそこにあって、たちどころに三十五年ほども昔に戻った思いを味わった。彼女たちも、いまはみんな立派なお母さんであったり、社会人であったりするのだが、しかし、不思議にほんわかとした、品格ある雰囲気があって、みな人柄のよい感じが好ましい。私にとっては、慶応の女子高は、心のふるさとのようなところで、そこで教えた六年間は、たいへんだったけれど、とても楽しい年月でもあった。生徒たちはみな優秀で、教育というものが、基本的に人間に対する信頼に基づいてなされるのだという一種の理想主義が、そこにたしかに息づいていた、とでも言ったらよかろうか。私は女子高では非常勤の講師に過ぎなかったが、そのまま専任の教諭になりたいと思っていた。が、その願いは叶わなかった。そのときは残念だったが、それはそれでよかったのだと今は思う。そしてこうして、一介の非常勤講師に過ぎなかった私を囲んで、こんな心楽しい会を開いてくれることのありがたさ。私はつくづく慶応義塾に学んで、そして教えて、よかったなあと思うのである。

2011年6月28日火曜日

WWFの署名活動にご賛同ください

 イギリスに発して、世界の自然保護のために広い活動をしているWWF(World Wide Fund for Nature)が、日本での原発全廃を求める署名活動をしています。これはインターネットで署名をできるシステムですが、日本の人口の1%、120万人の署名を現在募っているところです。今日本は、脱原発の運動と、それを阻止してあくまでも原発で利益を追求しようとする勢力が綱引きをしています。私は、こうした運動を政治的に左翼と右翼との対決ということにしてはいけないと考えます。イデオロギーに関係なく、この日本の美しい国土や文化を、原発の解決不能な危険から守り、子々孫々に伝えていくことが、私どもの使命だと考えます。それには、デモなどの運動もさることながら、こうした世界的バックグラウンドをもった、善意の組織の、整然たる署名運動に参加して、私どもの安全への志と、国を愛する心をしっかりと表明していくことが必要かつ有益だと思います。
 どうか、皆さま、右の人も左の人も、女も男も、老いも若きも、ともかく一人でも多く、このWWFの署名活動にご賛同くださいまして、正しい声を政治に反映させるよう、お力をお貸しください。
 この署名は、
 http://www.wwf.or.jp/activities/2011/05/986120.html
 からお入りください。

2011年6月14日火曜日

謹訳源氏物語 第六巻

 この震災などのせいもあって、やや進行が遅れていた『謹訳源氏物語』第六巻が、6月15日に刊行となり、店頭に並びます。
 多くの読者の方々、大変にお待たせして申し訳ありません。
 第六巻は、若菜(上・下)だけで一冊です。この若菜の巻は、源氏物語のなかでも、とりわけ盛りだくさんな、そして面白い巻で、普通の巻の五帖から六帖分ものヴォリュームをもった、ちょっと独立した長編小説という感じがあります。
 とりわけ、朱雀院の鍾愛する第三皇女、女三の宮の源氏への降嫁と、柏木の衛門の督の道ならぬ恋、また、源氏の最愛の人紫上の重病、そこへまた六条御息所の亡霊の出現、そして朱雀院の出家、さらに女三の宮の不義の子懐妊やら、柏木の懊悩やらと、ほんとうに奥行きの深い、また文学的にも読みどころの多い巻です。
 前巻に引き続き、第六巻も、サイン入りの本をネット販売いたします。くわしくは、本HPの「最新情報」のところをご覧下さい。
 ぜひ引き続き御愛読のほど、お願い申し上げます。

2011年6月13日月曜日

楽器博物館

 日々源氏物語の書き下ろしその他の仕事で忙しいなかにも、やはり音楽は、廃する事のできない心のよりどころである。
 さる8日に、浜松市楽器博物館で催された『イングランド麗し---吟遊詩人の歌と変奏曲---』というコンサートに、ちょっとだけ賛助出演してきた。このコンサートは、このほど同博物館からリリースされた同名のCD制作発売を記念して催されたもの。CDは、同館の所有するイギリスの名器、カークマンのハープシコード(チェンバロ、1791)と、キーンのスピネット(18C初期)のオリジナル楽器による演奏を水永牧子さんが聴かせ、また広瀬奈緒さんがイギリス仕込みの清澄な歌声を以て和する。博物館の展示室で催された演奏会には、私も、ほんのちょっとだけお手伝いに出てイギリスの古典的音楽の世界についておしゃべりをした。ついでに、アンコールの時に一曲だけ、水永さんの伴奏で、広瀬さんと『リンデン・リー』(R・ヴォーン=ウイリアムス)のデュエットを歌わせていただいた。写真は、そのデュエットの場面。贅沢な楽器と、贅沢な演奏家たちによる、楽しい演奏会であった。(photo=浜松市楽器博物館提供)

2011年6月10日金曜日

グリーンカーテン

 さあ、いよいよ夏がやってくる。この酷暑の季節を、なんとか節電しつつ乗り切るためには、あらゆる智恵を使わなくてはならぬ。そのために、まず、私は家中ほとんどの電球をLEDに換えてしまった。ただ、メインの居間の天井付けのライトだけは、蛍光灯なのでなかなかLEDには変更しがたく、しかし、このシーリングライトがたいそう発熱してたださえ暑い部屋を非常に暑くしている。そこでそのプラスチックのカバーを外して裸電球状態にしたら、熱がこもらなくなって明らかに涼しくなった。しかも四つある円形蛍光ランプのうち二つをはずしてしまったが、それで、カバーがないから充分に明るい。これでさらに節電と同時に室温を下げることに成功した。このために冷房が節約できる。このカバーつきの天井燈などは、まことによろしくないもので、見た目は格好悪いけれど、当面裸電球状態で暮す事にした。いずれ蛍光灯対応のLEDがもっと1/5位に値下がりしたら(現状は一本一万円くらい)それも考慮する。もっとも器具全体をLEDのそれに交換すべく電気屋さんに頼んでいるのだが、もう何ヶ月も来てくれない。どうやら電気工事に忙殺されているらしい。さらに、冷房に換えて、シャープの冷風除湿器というものを試験的に導入することにした。また、ベランダには、ゴーヤのグリーンカーテンを設けるべく、おおいに汗を流し骨を折ってこれを設置した。このゴーヤは恐ろしいほどのスピードで生長するので、見ていて大変に楽しい。
 こうして、あらゆる努力をしてすでに15%程度の節電は実現していると思う。このように私どもは充分な智恵を使って節電できるので、原発だけはどうしても完全廃止に向けて舵を切ってもらわなくてはならぬ。すでに欧州をはじめとして、世界は脱原発に向けて粛々と動き出している。それをいろいろな危機意識など煽って原発を維持推進しようとしているのは、要するに政界と官僚世界の利権の亡者たちの既得権益保持と自己保身のための企みにほかならぬ。心なき政治家たち、また喪志の官僚たちよ、よろしいか、私ども国民の志と智恵をばかにしてはなるまいぞ。やがて手痛いしっぺ返しを食うことになることを、よくよく肝に銘じておくがよい。

2011年5月29日日曜日

京都北山志明院

 JR東海の車内誌「ひととき」の特集取材で京都へ行ってきた。
 今回のテーマは、「涼を感じる」というようなことで、あの暑い京都の人たちがどういうふうにして暑さと対峙し、それを克服する智恵を集積してきたか、ということを学びに行ったのである。
 今回の取材でもっとも感銘を深くしたのは、鴨川の源頭北山雲が畑の志明院を訪ねた事である。志明院は、こんなに山深いところが京都のすぐ外にあったのかと、ちょっと驚かされるほど深山幽谷の趣豊かなところにひっそりと佇み、あたりは、満山森林の気と、清流から発せられる幽邃の気に充ち満ちている。
 息を吸えば胸中の鬱を散じ、心の洗われるような爽快感を覚える。なんともいえぬ去俗の愉快を感じた。写真は志明院のご住職田中真澄さんご夫妻。このご夫妻がまた、あたりの静謐清爽な感じそのものの、愉快で飾らぬ、そしてまったく俗っ気のないお人柄で、初めてお目にかかったのだが、たちまちに十年の知己のような親しみを覚えた。またぜひ再訪したいと思う。

2011年5月21日土曜日

世紀末の愛を歌う

 きのう、19日の夜、サントリー小ホールで開催された、二期会の連続演奏会のうちの『世紀末の愛を歌う』というコンサートに、コンサートトークのお役で出演してきた。このコンサートの企画は芸大名誉教授嶺貞子さんで、ご自身はトスティのナンバーを情緒纏綿と歌われた。
 写真は、終演後に楽屋で撮影した出演者全員の集合写真。
 私は「世紀末とはどういう時代であったか」ということを、音楽に限らず、美術工芸や建築や文学などにわたる、汎ヨーロッパ的芸術運動と社会的背景ということでお話しした。わずか十五分の短いトークで意を尽さぬところがあったのが残念だけれど、もとより私のトークは刺身のツマというものゆえ、聴衆の皆さんには、どうでもよかったかもしれない。呵呵。写真左から、テノール松原友さん、アルト伊原直子さん、私、ソプラノ嶺貞子さん、メゾソプラノ森永朝子さん、バリトン宮本益光さん、ピアノ山岸茂人さん。

2011年5月3日火曜日

音楽仲間

 昨日は良い一日だった。ずっといっしょに音楽をやってきた仲間が集まってくれて、久しぶりに思う存分に歌を歌った。独唱、重唱、とくにまた勝又晃君とのデュエット「デュオ・アミーチ」での二重唱、いつの間にか歌いっぱなしで二時間もたっていた。ここ一ヶ月余り、花粉の影響やら大地震・原発の憂鬱やらで、ずっと気管支の調子が悪く、日々慢性気管支炎の状態が続いて、声もかすれてしまって出ないし、意気消沈して過していたのだが、昨日思いきって音楽三昧に過したところ、その終わった直後にはさすがに声帯が疲れて掠れ気味であったにもかかわらず、今朝になってみたら、気管支の不調は嘘のように消えうせ、楽々と声が出るようになって、私は一ヶ月ぶりに愁眉を開いた。音楽というのは、いかなる薬よりも、しばしばこうして著効をしめすのである。そういう経験はこれが三度目だが、今回のはほんとうに嬉しい、劇的な変化であった。写真は、私のオフィスで撮影したものだが、前列右がピアニストの五味こずえ君、左がソプラノの岡村由美子さん(勝又夫人)、後列右は私の舎弟分で海陽学園教諭の川本真雄君、左が我が師であり相棒であり良き友でもあるテノールの勝又晃君。

2011年5月1日日曜日

デスクライター

 いまでこそ、カラーのインクジェットプリンタが全盛で、安くて素晴らしい機能のがいくらでもあるが、これがほんの十五年くらい前は全然情勢が違っていた。まだキイキイとうるさいドットインパクトプリンタなんてのが主流で、インクジェットは出てはいたけれど、スピードは遅く、クオリティは低く、あまり感心したものではなかった。そこで熱転写プリンタなんてのが巾を利かせてもいたのであった。そういうなかで、ヒューレット・パッカードが発売した、デスクライターというプリンタは、むろんまだモノクロながら、当時の常識を覆すような素晴らしい印字性能を持つインクジェットプリンタの先駆的存在で、発売たちまちに、私どもマックユーザーにとっての定番プリンタの地位を獲得したのであった。この写真がそれで、デスクライター680Cという機種、1996年製。実は私は今までに使用したコンピュータ機材をずっと捨てずに保存している。自ら称してコンピュータ博物館。そのなかにこのマシンもずっと保管していたのだが、さすがにもう置く場所に窮するような事態になって、断腸の思いで、プリンタ類は処分することにした。非常にユニークな技術を駆使した名プリンタを捨ててしまうのは、まことに忍びないが、やむを得ない。さらば、わが愛しのデスクライター!

2011年4月30日土曜日

超長茄子

 野菜というものはまことに面白い。
 ここもとお目にかけるのは、ご覧のような超長茄子。これはたしか長崎あたりの産であったかと思うのだが、ともかく、長い! 写真の皿は二十センチ以上の差し渡しのある皿だから、おおかたこの茄子は五十センチほどもあるにちがいない。ああ、しまった、喰ってしまうまえに、ちゃんと長さを計測しておくのであった。
 で、この茄子は、オリーブ油で焼いて食べたのだが、味はまったく普通の茄子で、季節が早いせいもあって、アクはまったくなく、いささか甘さも感じられる上等美味なる茄子であった。こういう滅多と見かけることのない野菜を手に入れて、さあ、どんな味かなあと想像しつつ料理する、そこに一つの大きな楽しみがある。

2011年4月28日木曜日

いきいき


 一昨日26日の午後、神楽坂にちかい出版クラブというところで、雑誌いきいき主催の文学講演会をやってきた。これが三度目だが、前回に引き続き、源氏物語を主題に一時間半お話ししてきた。今回の題目は『光源氏のイケズぶり』というので、この物語のなかに描かれている光源氏がいかにイケズであるかということを、あれこれ例を引きつつ解剖した。
 まあ、そういうイケズな男であっても、天下無双の美男で、貴公子で、天才で、秀才で、美声で、優しげで、泣き虫で、と、こう条件が揃えばどうしても女心は引きつけられてしまうのであろうと、そのように結論づけざるを得ないのだが、聴衆は全員ご婦人で、なかに、敬愛する清川妙先生と、桐原春子さんのお姿もあった。桐原さんは、ずっと以前に雑誌の対談でお目にかかって以来、お互いの著書を交換するというようなおつきあいだが、すらりと背の高い、日本人離れした素敵な女性で、そのご生活自体が、一つの素晴らしい美を体現している方である。桐原さんのブログの美しい花々やお庭の風景の写真には、たしかに人を癒してくれる力がある。この写真はその桐原さんとのツーショットで、私が手に持っているのは、桐原邸のお庭の花々を摘んで作ってきてくださったブーケである。

2011年4月18日月曜日

たまには豪勢に

 というわけで、景気付けのつもりもあって、巨大なるインドマグロのカマのところを買ってきて、これをローストして喰った。
 この皿は三十センチくらいある大皿で、そこからもドンとはみ出るほど巨大なカマのロースト、これはちょっと料理に手間がかかった。
 くわしくは、「毎日が発見」という雑誌の連載「リンボウ先生の食いしん坊日乗」というところに書くけれど、まず、すっかり中まで火を通すには、一時間十五分くらいは焼かなくてはならぬ。とかくマグロは生臭いけれど、きちんと下処理をして手抜きせずに作れば、非常に美味しくもできる。いや、まことに結構なるお味でありましたが、実はこのマグロは、二キロほどもあって、たったの500円であった。みんなどうやって料理したらいいか分からないから買わないのであろうかな。

2011年4月15日金曜日

国立天文台の花


 ちょうど、小金井から中央高速調布インターへ行く途中に、旧国立天文台がある。今は独立法人になっているのだが、昔は、東大の研究所の一部であったという。その天文台の渡部潤一先生からお誘いいただいて、生まれて初めてこの天文台に足を踏み入れた。かねてから、美しい里山風のたたずまいを眺めては、どんなふうになってるのか、一度中を見てみたいと思っていたので、お花見を兼ねて見物に行ったのである。入ってみると、想像していたよりずっと広くて木々が素晴らしい樹形を形作り、盛大に竹やぶなどもあって、東京のなかにこれだけ豊かな自然があるのは珍しいと感心した。その広大な敷地のなかに、戦前からずっと続くさまざまな天体観測施設が散在し、不思議に歴史的な景観を見せている。
 折しも数多くの桜の古木が満開で、天気は良し、まことに絶好の花見となった。職員の方々、渡部夫妻もご一緒に、しばし花のもとの風流を楽しんできた。写真上の左が渡部先生、下は、敷地内に復元移築されている昔の一号官舎の庭に設置された小型天体望遠鏡で遙かに遙かに遠くの雑木林をのぞいてみた景色。これほど近々と若葉が見える。よい春の行楽であった。

2011年4月6日水曜日

神代桜


山梨県北杜市白州の山中にある山荘を、今年も開けに行ってきた。毎年忙しくてなかなか行かれないのだけれど、雑木林のなかのこのログハウスの山荘は、ほんとうに居心地のよい「私の好きな場所」である。今年は、少し源氏の本でも持って行って、山荘に籠って源氏を書こうかとおもってもいる。ただ、まだ山の中は寒くて、若葉の季節までもう少し待たなくてはならない。
ゆく道の途中に、山高神代桜という樹齢二千年という途方もない巨木古木の桜があって、特別天然記念物に指定されている。これを見に行ったが今年は春が寒くて、いまだに開花していなかった。残念。しょうがないので、B級グルメ富士宮焼きそばを屋台で食って引き返した。

2011年4月5日火曜日

坂口貴信君独立披露能

 ちょっと時間が経ってしまったけれど、三月の二十七日、観世流能楽師坂口貴信君が、宗家内弟子から独立したことを記念して、郷里の博多大濠能楽堂において、秘曲『石橋』を舞った。坂口君は、わが林望事務所番頭坂口翠君の実兄で、私の芸大時代の教え子でもある。そんな関係もあって、この独立能の解説をしに博多まで出向いてきた。この不穏な情勢のなかで、しかし、公演は満員の盛況で、大成功裡にめでたく舞納めた。『石橋』は、小書きつきの半能で演じられることがおおく、まったく何の小書きもない根源の姿で演じるのは、むしろ非常に珍しいと言って良い。昔は、一子相伝の秘曲だったそうであるが、こたびは、宗家直々に後見を務められての披きであった。まことに格調高く、また強づよとした舞ぶりで、獅子の舞の本義にかなうというべきものであった。これより、坂口君は、一人前の能楽師としてますます活躍の場を広げていくことと思うが、どうぞ皆さま御贔屓に願い上げ奉ります。写真の向って右が貴信君、左が翠君、両側に御両親。お父さまの信男師も博多在住の能楽師、貴信君はいわばサラブレッドである。良い演能の一日であった。大濠能楽堂のホワイエにて。

2011年3月23日水曜日

我が節電

 東京の計画停電はまことに不便で、とくに近所の店という店がしまってしまうので、なにもかもはかどらない。ここは、ひとつ大いに智恵を絞って節電に励もうというわけで、まず私は、いっさい暖房をしないで仕事をすることに決めた。もともと暖房は好きではないので、部屋の空気を暖めることはしないのだが、ただ書斎は床暖房になっていて、頭寒足熱の寸法でやっていた。が、今般、節電のために、いっさい床暖房も加湿器もつけないことにした。また仕事用のスタンドもLEDに変えてやっている。しかし、この寒波で夜などずいぶん冷える。これを乗り切るために、私は、二リットルのペットボトルに45度かそこらの湯を入れて、それで足下にゴロリと転がしておく。こいつを足先でちょいちょいと挟んだりするだけで、ずいぶん寒くない。で、足には、ご覧のように、羊の毛皮の室内履き(これはカタログハウスで通販しているもの、とても温かい)を履き、その中には、ユニクロのフリースソックスを履き、足の方は内側にフリースが張ってある非常に温かいズボンを穿いて、綿入れの袢纏を着て、首にはマフラーを巻き、頭には勉強頭巾を被って、おさおさ怠りなく防寒に努めながら、寒気凛冽たる書斎でせっせと『謹訳源氏』にいそしんでいるのである。皆さまもぜひ、そのようにして節電に協力いたしましょう。

2011年3月16日水曜日

未曾有の大震災

 まことに古今未曾有の国難に際会し、被災地の皆さま、また救出医療等に御尽力の皆さまがたに、心からのお見舞いと応援を申し上げます。
 幸いに、私の家は、多少がたがたと揺れた程度で、なにも被害を被る事なく、一家息災にしておりますので、そのことはどうぞご放念ください。
 ここに掲出の写真は、きのう、イギリスの友人が送ってきてくれたインディペンデント紙のトップで、この日の丸が、再び上る朝日のように感じられます。いま、在外の友人たちにたのんで、海外でのこの度の災害の報道を集めていますが、世界中の人々は、日本人が、まことに、この大非常時に際して、考えられないくらいの災難を蒙りながら、しかしなお、すこしも理性を失うことなく、粛々としてそれぞれの任務を遂行し、助け合い、我慢し、そして復興へ向けて努力しようとしている、その姿に等しく感動をしていることがわかります。かかる状況下に、叫ぶ人も、奪い合う人もなく、略奪や争いも一切起らず、乏しい食料を、みなですこしずつ分け合って食べて、少ない毛布にいっしょにくるまって寒さを凌ぐ。こういう日本人の心のありようは、世界中の人に感動を与え、日本人は凄いぞ、とみんなが尊敬をしています。この災害は、日本人を世界が見直す契機となってもいます。
 さる友人は、つぎのようなメールをくれました。原発事故の予後は予断を許さぬ状況ではありますが、こういうときこそ、なによりも平常心を以て、粛々と務め、孜々として励む、そういう国民性を大いに発揮いたしましょう。
 がんばれ日本、がんばれ東北
 がんばろう日本人、がんばろう東北人

It is a national trauma but I am sure that no other country in the world could
handle a similar catastrophe better.
Hope also that recovery will be fast and smooth.
All the best, E*****
 

2011年2月28日月曜日

つながるラジオ

きょうは、午後四時五分から、NHKラジオ第一放送の、つながるラジオ、「ラジオ井戸端会議」という毎度おなじみの番組に出演。生放送で、「卒業アルバムを開いてみませんか」というのをやってきた。写真は、司会の柿沼郭アナ、石山智恵アナ、のお二人といっしょに。出演依頼を受けた最初は、「卒業」という漠然としたテーマだったのだが、ディレクターと話していくうちに、もっと絞って卒業アルバムに焦点を当てようと決定。すると、このテーマはリスナーの心に響くらしく、たちまちメールやファックスが殺到して嬉しい悲鳴状態だった。放送そのものも、司会のお二人の楽しいお人柄に導かれて、大変楽しく終えることができた。四月からは、こんどは私がメインのスピーカーとなって、あたらしい二時間枠の番組がはじまる。午後三時から五時まで、ラジオエッセイとでもいうような感じで、そのなかには謹訳源氏の朗読やら、音楽やら、いろいろ盛りだくさんにと思っているので、どうぞ御期待ください。全国放送です。

2011年2月24日木曜日

ハマグリのようなシジミ

 まず、このシジミの巨大なことをご覧いただきたい。隣に置いた500円硬貨と比較すると、その巨大さがわかるというものだ。江戸時代の物の本には、シジミもしかるべき場所でよく養いたてるとハマグリほどの大きさになる、と書いてあるのだが、まさか、シジミがハマグリにはなるまいと思っていたところ、きょう、さるところで、ふとこの巨大なシジミを見付けて、吃驚した。なるほど江戸時代の人は嘘は書かなかったのだなあと、今さらながら脱帽である。このシジミは青森県産とあったから、いずれ十三湖かあのあたりで産したものかと思われる。これほど大きなシジミは見た事がなかったので、さっそくシジミ汁にして食おうと思ったが、作ってみたら、なんだか機械油のような匂いがしてちっとも美味しくないので、食べずに捨てた。巨大なシジミかならずしも美味とは言えないということである。