2010年12月28日火曜日

一輪のバラ

 家の玄関前に置いてある小さな植木鉢に、一本のバラと、洋蔦と、オリーブの木がいつのまにか混植になって共生している。これらを植えた記憶はまるでないので、どうしてこういうふうになっているのかわからない。が、事実そういう珍しい、また大して見どころのないような一鉢が、もうここ十年以上、枯れもせず元気に生き続けているのは、まことにめでたい風景である。
 なかんずく、このバラは、毎年今ごろになると、この位置に、ただこの一輪だけの可憐な花を咲かせる。そうしてずいぶん長いこと咲き続けるから感心だ。薄い黄色に花弁の先だけが紅をつけたようになっていて、その可愛らしさはなんともいえぬ。最近は、生ゴミを乾燥させる機械でからからに乾燥させてから、これらの植木鉢にも栄養としておすそ分けするのだが、そんなのを食べてかろうじて花をつけるのであろうか。栄養があまりよくないから、アブラムシなども付かないのは、思わぬ余得というべきかもしれぬ。ともあれ、華々しい園芸品種の大輪のバラなんかより、この「野のバラ」ともいうべき風情の一輪の好ましさ。私はなんでも、こういうささやかなものを好む心の癖があるのである。

2010年12月26日日曜日

カード作り

 最近のデジタル写真・カメラと、コンピュータのプリンタのクオリティの向上はまさに目覚ましく、一昔前だったら、業務用の大型マシンでしかできなかったような高精細な印画があっという間に作れる。
 私はカメラは、通常、パナソニックのLUMIX・DMC−FX60という小型のと、リコーのGX100を使用し、プリンタはキャノンのPIXUSである。いずれも非常に高性能で、コストパフォーマンスは驚くべきレベルである。
 ここに並べてあるのは、いずれも、私自身の写真や絵を用いた自家製の絵葉書である。写真は適宜、露出や色温度を調整したり、トリミングしたり、レタッチを施したりして修正してあるが、それをこうやって、ツヤ無しの両面印刷可という厚手のインクジェット印刷用紙にデザインして印刷してやると、なかなか素敵な絵ハガキカードができる。この裏面に「Season's Greetings」などという文字を印刷しておくと、とても自家製には見えぬ素敵なカードができ上がる。こんどはこの応用として往復ハガキ用紙を用いて二つ折りのグリーティングカードなども作ってみようと思う。が、なかなか郵便番号枠など無粋なものが印刷してない往復ハガキ用紙が手に入らないのがこまりものだ。
 勉強の合間に、こんな風雅な遊びで気分転換を図っているのである。

2010年12月24日金曜日

白菜鍋

冬は鍋に限る。鍋は、まず体が温まる。野菜がたくさん食べられるので健康上にすこぶるよい。なおかつカロリーは大した事がない。この写真の鍋は、私が勝手に「白菜鍋」と名づけたところのもので、実は鳥の水炊き風の鍋である。土鍋に昆布と煮干しを数時間漬け置いて低温で出しをとり、水から鶏の骨付き肉を入れて次第に沸騰させることでスープをとる。こうしてあとは焼豆腐だの大根だの、いろいろな野菜が入っているのだが、この写真では見えない。すべてを入れて煮てから、その全体を覆うように山東菜(白菜)をたっぷりと載せてぐつぐつ煮てある。この真黄色な色の美しさ。こういう白菜は最近あまり青果店では見かけなくなったが、その風味、やわらかさ、そして甘味、癖がなく、最上等の白菜はこれである。漬物にして最高に旨い白菜だが、こうして鍋にしても一級である。あとはただこれをポン酢などで食べるだけであるが、鍋を煮ているだけで部屋中が加湿され、良い香りで満たされる。じつに鍋は徳の多い食物である。

2010年12月18日土曜日

四半世紀の昔スコットランドで

古い写真を整理していたら、こんなのが出てきた。これは今からほぼ四半世紀の昔に家族でスコットランドへ旅行したときの写真である。インヴァネスからちょっと東に外れた、ネールン川のほとりの村、クロイというところに建っているキルラヴォック城での記念写真。といってもこの城、いまではB&Bになっていて、その城主さまがオーナーで、いわば大規模にして壮麗なる民宿なのであった。安くて快適で、食事のあとなど、ラウンジに宿泊の旅人が集まって談論風発、すっかり仲良くなってしまう。翌朝、みんな出発の前に記念写真を撮った。そのあったかな空気がよく写真に表われている。この中の何人かとは、その後もずっと文通があったのだが、いつしか途絶えた。前列に並んでいるのが、妻と二人のこども。今は彼らも独立してみな人の親となり、アメリカに住んでいる。

2010年12月16日木曜日

松沢神奈川県知事との対談

きょうは、はるばると横浜の神奈川県庁まで出向いて、松沢成文県知事と公開対談をしてきた。『ストップ受動喫煙』というテーマで、受動喫煙防止条例という先進的な条例を制定した松沢知事と、このタバコの問題を巡って大いに談論風発してきたのである。主催は、タバコ問題情報センターという公益法人で、私はその理事を務めている。司会は同センターの代表である渡辺文学さん。もともと私も松沢さんも強力なる脱タバコ論者なので、対談といっても議論を闘わせるというふうではなく、二人でタバコの問題点を巡って大いに論じ来たり論じ去る、とでもいうような対談となった。松沢さんは、ほんとうに清々しいお人柄で、神奈川県庁全体がその強力なリーダーシップによって、整然と粛々と禁煙に邁進しているとでもいうか、どこにもタバコのあの嫌な匂いがせず、まったく愉快なことであった。今後とも、私は、受動喫煙の防止のため、また日本の国から、タバコなどという千害万害あって一利なき毒物を一掃すべく微力を尽したいと思っているところである。

2010年12月14日火曜日

池田弥三郎先生

大学時代はほんとうにもう大昔という感じになってしまった。それはそうだ、卒業してから、すでに四十年近い年月が過ぎ、恩師がたも多くは故人となってしまわれたのだから。この写真は、昭和46年とあるから、私が大学三年のときのものだ。前列中央にニコニコして座っておられるのが、池田弥三郎先生。当時はタレント教授として大変によく知られていた。銀座の天ぷら屋天金の令息であったが、商売を継がずに折口信夫の弟子となって国文学を修められた。大変にお酒のすきな、また食通としても知られた方で、しかし、酔って乱れず、見事なお酒であった。この写真は、人形町の老舗鳥料理屋の玉ひでで撮ったものである。当時私ども国文の悪童どもは、池田先生にお願いして、あちこちとおいしいものを食べに連れていっていただく会をやっていた。といっても、みんな真面目にお金を積み立てて、そのお金が貯まると食べに行った。が、そこは池田先生のお供をして行けば、どの料理屋でも、下へも置かぬ持て成しをしてくれたのだ。御馳走をたらふく食べて、酒ももちろん(上戸の諸君は)飲んだが、乱酔ということは決して許されなかった。微醺を帯びて先生はよく江戸の俗謡やら、宝塚の歌やらを歌ってくださったのも、よい思い出である。

2010年12月9日木曜日

須磨源氏

昨日、新宿の朝日カルチャーの『能と源氏物語』という講座の第三回に出講。この講義は、観世流能楽師の坂口貴信君とふたりでやっているもので、私が主に文学としての謡本や能の構造などについて概説し、そのあと、坂口君が、舞を舞ったり、謡を謡ったり、また面や道具などを持参して実物を示しながらの説明をしたり、とまことに欲張った企画、毎回正味三時間という特別講座である。今回は、源氏を題材とした能のなかで、唯一光源氏がシテの『須磨源氏』について。一見なんでもないように見える謡の詞章のなかに、なかなか奥深い趣向が仕掛けられているのを分析しつつ、あとは一部の謡と、早舞の解説と実技、中将と平太の面の解説、さらには扇(中啓)の各種を見せたあと、私が実験台になって、実際に後シテの源氏の装束を付けるところをお目にかけた。写真はその直面(ひためん)のところだが、このあと実際に面や鬘などもつけて完全扮装。しかし、この装束は全部で二十キロくらいあるもので、起ち上がると、まるで重りを背負った如く、足下がふらつくのであった。こんな装束を付けて、面を付けてほとんど視界を奪われたなかで能を舞うのだから、能役者というのは凄いものだと改めて感銘を受けた。

2010年12月4日土曜日

学問の鬼阿部隆一先生

 私にとって最大の学恩を蒙った師、書誌学者阿部隆一先生(慶応義塾大学斯道文庫名誉教授)は、1983年に易簀されているので、もう没後27年にもなるのだと、数えてみて愕然たる思いがする。この写真の左端、膝に風呂敷包みを載せているのがその阿部先生である。この時私はおそらく二十代の終りころであったろう。右の白髪の紳士は室町時代物語の第一人者であった松本隆信先生であるが、松本先生には、私は一度もお教えを頂いたことがない。阿部先生は、福島県出身のほんとうに村夫子然とした方で、終生福島訛りがぬけなかった。なにしろ風貌からしておっかない先生だったが、ほんとうは心優しい方で、なにより邪気がなかった。酒も呑まれず、勉強ばかりして、あっという間に世を去ってしまわれた先生に、私は文献や書誌の学問を、なにもかも教えていただいたのである。邪気のない子供のような純真さの故に、しばしば人と衝突することもあり、先生に完膚無きまでやっつけられて、内心に恨みを持った人もきっと少なくなかったろう。しかし、書誌文献の学問に携わっていた人で、阿部先生以上の学識・文才を持った方には、いまだ出会わない。話せば訥弁であったが、書けば颯爽たる名文を書く天下無双の名文家、それが阿部先生であった。だから私は、阿部先生に「この論文は良く書けている」と言われたときほど嬉しい事はなかったのである。

2010年11月30日火曜日

小春

なかなか本格的な冬にならぬ。
例年に比べて、やはり秋から冬への歩みが少しずつ遅くなっているように感じる。この夏の酷暑が、なお亡霊のようにその名残を留めているのであろうか。
きょうもまた、よい小春日であった。さるなかに、小金井のあたりはまだまだ田園的で、日中に歩き回ってみると、あっと驚くように美しい風景に遭遇することがある。きょうもきょうとて、学芸大学の横手の道を通ると、そこに、こんな色鮮やかな景物を発見した。桜の老木に蔦が絡まって、その桜紅葉蔦紅葉が映発しあっているのであった。きょうで霜月も終り、あすからは師走である。ああ、もう一年が経ってしまう、となにやら哀しい思いにかられる。この一年も源氏また源氏で過ぎてしまった。そうして、まもなく梅枝の巻を書き終わろうかというところに来た。ちょうど半分というところだ。源氏は手ごわく、面白く、そして美しい。

2010年11月29日月曜日

犬山城

昨日、一昨日と、再び名古屋へ赴いて講演をしてきた。今回は、犬山城のお膝元での講演で、『アーネスト・サトウの人生と明治維新』というテーマで一時間半ほど話してきた。例によって車で名古屋往復をしたのだが、道中今が盛りの美しい紅葉やら雪化粧のアルプスやらで大いに楽しんだ。
犬山城は、明治維新に際して破却されなかった数少ない名城の一つで、木曽川をあたかも濠のように見立てた風光明媚な立地をもつ。なんでも、この城は、木曽川を隔てて向こう岸から見るのがもっとも絵画的で美しいと聞いたので、講演を終えてから対岸に渡って撮ったのがこの写真である。まるで川瀬巴水の木版画の世界かと思われるような美しい夕景となった。

2010年11月26日金曜日

エリックを探して

近く公開される『エリックを探して』というイギリス映画の試写版を見た。これが、劈頭から、ずっと真っ暗な画面のなかに陰々滅々たる、パッとしない労働者オヤジの、しかもダメ男の主人公が、なにやら惨憺たる暮らしをしているところばかり写しだされて、こりゃあエラク暗い映画だなあ、と半ば閉口しながら見ていたところ、この男の心の中のヒーロー、サッカーのスーパースター、エリック・カントナ(の幻影)が、いろいろと彼にアドバイスし力づけ、そして最後は、そりゃもうハチャメチャに愉しい、痛快無双の解決が待っているという、どうしたって涙なくしては見られない傑作であった。このカントナ役には、なんと本物のカントナ本人が出演していて、ショーン・コネリーばりの渋い男前と名演技を見せる。感心。監督は名匠ケン・ローチ、脚本は、スコットランド人とアイルランド人を両親にもつ法律家ポール・ラヴァティ(それゆえ、全体にアイリッシュ的風韻が横溢している)、そして主演は、スティーヴ・エヴェッツ。ともかくものすごく男臭い、労働者英語満開の、徹底的にアナログで古風な映画作法による傑作。もうコンピュータグラフィックで捏ね上げた最近の巨篇映画や魔法童話には飽き飽きしたという人には、ぜひお勧めの一作である。

2010年11月25日木曜日

勉強頭巾

 きょう、床屋に行って、髪をさっぱりしてきた。・・・・が、そうするとどうも首が寒い。私は真冬でも部屋の温度を暖めない主義で、むしろ凛冽たる冷気のなかでやらないと勉強も仕事もはかどらない。それゆえ、裏にフリースの張り合わせてあるズボンを穿き、マフラーを巻き、足には羊の毛皮のブーツのような室内履きを履き、とおさおさ怠りなく冷えないようにしているのだが、それでも首や頭が冷えてくると、とかく頭痛が起るもとになる。そこで、冬に活躍するのが、我が大発明「勉強頭巾」というもので、これは厚手のタオルをただ二つに折って、その一辺を縫い合わせただけのものなのだが、これをこのようにすっぽり被ってしまうと、おどろくほど首や後頭部があたたかく、能率がうんと上がる。今年もいよいよ勉強頭巾の出番の季節になった。いま外にはしょぼしょぼと雨が降っていてとても寒いので、きょうはこの頭巾がほんとうにありがたい。

2010年11月24日水曜日

観世能楽堂

 きょうは観世流の下平克宏さんの演能の会で、解説を頼まれて30分ほど、渋谷松濤の観世能楽堂で話しをしてきた。演目は『熊野』。平宗盛の愛妾熊野(ゆや)には、郷里の池田宿に年老いた母が残っていて、いまや病のために余命いくばくもない、そういう状態でありながら、宗盛が熊野を手放すことを肯んぜず、花見に伴って宴をしようという。熊野はかごの鳥の悲しさで、帰りたい一心でありながら、主宗盛の命にしたがって舞を舞うという、そういう曲なのだが、美しい花の宴、そして郷里の母の命、板挟みになってなお美しく舞うということがこの曲の眼目である。下平さんのシテ熊野は、いかにもおっとりと優しく、品格のある演技で、とてもよかった。また、大鼓亀井広忠、小鼓大倉源次郎、笛松田弘之の囃し方の豪華メンバーはさすがに期待を裏切らない。みごとな演奏で堪能した。ワキの森常好さんの宗盛も、傲慢な感じというよりは、どこかおっとりとした品があって、いかにも平家の棟梁らしい雰囲気がよかった。なかなか結構な能であった。

2010年11月23日火曜日

久保田芳太郎先生

私が大切な教えを受けたのは、なにも慶応義塾の先生がたばかりではない。この写真の恰幅の良い方は、私が東横学園女子短大の教員をしていたときの国文学科長で、近代文学研究者の久保田芳太郎先生である。この写真は、おそらく上野毛のさる料理屋で撮影されたものかと思うけれど、はっきりしない。さて、久保田先生は、いわゆる「太っ腹」というのがもっとも当っているだろうような、人柄の大きな、そしてほんとうに愉快な先生で、いわば「人生の師」ともいうべき方だった。とかくぎくしゃくしがちな大学の研究室にあって、早稲田、慶応、国学院、成城、などバラバラの大学出身の、しかもみな一廉の研究者として個性の強い若者ばかり、それをぐうとも言わせずに、すべてを笑顔と包容力で掌握していたのが早稲田出身の久保田先生であった。私などは、ずいぶん自由闊達にいろいろなことをさせていただき、そして、イギリスに留学することを勧めてくださったのも久保田先生であった。懐かしいといって、これほど懐かしい方もいない。先生はある時忽然として世を去られたが、その晩年がどうであったか、じつは私どもにはまったく分かっていない。ああ、久保田先生に、もう一度会いたいなあ。

2010年11月21日日曜日

回想の力

 昨日は、北名古屋市という、名古屋北部の町で開催された、「回想法シンポジウム」という会に招かれて、『ついこの間あった昔』というテーマで基調講演をしてきた。回想法というのは、イギリスで発達し実践されている一種の心理療法(というか、もっと広い概念)で、多くの人が、それぞれの少年時代や青春時代を回想し、またその回想のよすがになるような品物(たとえば、ブラウン管テレビとか真空管ラジオとか、洗濯板とかちゃぶ台とか)を巡って、回想を語り合うことによって、人と人のコミュニケーションを回復し、また脳の活性化、心の若返りなどを図ろうという運動である。これが結構面白く、こんご全国的に展開されることが望まれる。北名古屋市は、合併によってできた新しい市だが、行ってみるとまだ近郊農業がさかんに行われている都市型農村と新開発住宅地の混交する典型的郊外地であった。しかし、このシンポジウムは800人ほどの参加者を得て、ホールが超満員という盛況であった。外の田は刈り入れが済んで、その稲の切りくいから、青々とした新芽が伸びていた。こういうのを「ひこばえ」というのである。冬のなかの小さな春、まさに小春日和に相応しい景物であった。

2010年11月18日木曜日

山荘の冬じまい

いよいよ冬の寒気が日本の上空にも流れ込んできて、北海道などはもう一面の雪とのニュースをテレビで見た。このままでは、山の家の水道が凍結するのも時間の問題だと思うのだが、これから十一月の末になると、とても忙しくて身動きが取れそうもないので、思い切って昨日、山梨県白州の山中にある山荘の冬じまいに行ってきた。さすがに山中にはいると、美しい錦繍の秋景色で、私の家のあるあたりは、とくに低山帯の落葉樹林ゆえ、その美しさも一入であった。さして大きからぬ山荘だが、これで全部掃除をして、蒲団などをしまって、水道一切の水抜きなどをして、しっかり戸締まりをして、というとやっぱり半日がかりの仕事であった。万一熊にでも出くわさぬかと、それだけが心配であったが、幸いにいまだに熊には出会わない。ただ、鹿、猪、狐、狸、猿、蛇など、いろいろな動物に遭遇したことがあって、ここはほんとうに自然が深いという感がある。この山荘も一時は売ってしまおうかと思ったけれど、やっぱりもう少し持っていることにした。これから源氏物語の仕事が一段落したら、ゆっくりこの山荘で疲れを休めることもあるに違いないからである。

2010年11月14日日曜日

森武之助先生

 今回は、適当な写真が見当たらないので、私が描いた鉛筆画のデータを以て之に代える。さて、森武之助先生は、1990年に長逝されたので、今年は没後二十年に当る。亡き人の時ははやい、まことにその感が深い。思えば、1990年は、わが敬愛するルーシー・M・ボストン夫人も亡くなった年であったから、なんだか不思議な感じがする。そうして、その年、私は『ケンブリッジ大学和漢古書総合目録』と『岩崎文庫貴重書書誌解題』とを同時に編述していて、過労死しそうなほどの過密スケジュールであったが、しかし、その夏休みに信州の山荘で、息抜きがてらに『イギリスはおいしい』を書いたのだから、思えば意義深い年であった。さて、森先生は、私の慶応義塾における恩師で、江戸時代と中世の文学をお教え頂いた。というよりは、先生はただ私どもに自由に研究させて、しかし道を踏み外さないように、そこだけはきちんと支えてくださったといったほうがいいかもしれない。細かなことを一々は教えず、私どもの自発の勉強に任せて各自の才覚を伸ばしてくださったのだから、ありがたい先生であった。ほんとうの大人の風格のある、柄の大きな、そしておっかなくも優しい、親切で無愛想な、なんともいえない味のある先生であった。先生から折々頂戴したお手紙は、今も私の最も大切な宝物である。

2010年11月13日土曜日

ナイチンゲールのお手伝い

 ちょっと珍しい仕事をした。きのう、渋谷のさる映写スタジオでのこと。私はこれまで知らなかったが、あのナイチンゲールが看護に当る者の心得などを記した『看護覚え書き』という本があって、これは世界中で、今なお看護師たちのバイブルのように読まれている本だそうである。その名著をテーマとして、現在製作中のドキュメンタリーDVDがあって、そのナレーションを頼まれたのである。『看護覚え書き』の朗読そのものは、もとNHKのアナウンサーの加賀美幸子さん。全体を看護学の川島みどりさんが監修している。なかなかためになる作品にしあがりそうだが、一般劇場公開やテレビ放映などはいまのところ予定されていないという。それで各地でその道の人たちを対象として上映会などをして公開するとのことである。NHKが全国放送したらいいのに。

2010年11月12日金曜日

明治大学の見晴らし

 きのうは、神田の明治大学へ講義に行ってきた。同大学が経営している市民公開講座があって、そのなかの一コマ、「本を読む楽しみ」という枠のなかの一回を担当したのであった。明治大学はいま高層ビルになっていて、その別館ともいうべきアカデミック・コモンという建物の十一階にそれはある。また源氏物語の話をしたのだが、聴衆は十五六人、そのうち男の人は一人だけであった。講師控室は見晴らしの良い部屋で、なかなか居心地がよろしい。ついその見晴らし写真を撮った。講義を終えて帰ろうとしたら、エレベーターが雑踏していたので、恐れを為して階段を歩いて下った。ところが、十一階のはずが、下のほうが大ホールになっている関係で、じっさいには十五六階分もあって、歩いても歩いても一階に着かない感じであった。両手に大荷物を持っての難行軍、やっと地上に降り立ったときには、もう太ももやふくら脛の筋肉がブルブルと震えるほどで、これは筋肉痛だなあと思っていたら、案の定、今朝はひどい筋肉痛になった。よい運動になったといえばそれまでながら・・・。

2010年11月10日水曜日

青木義照画伯

 これからしばらく、もうすでに物故されて二度とお目にかかることはできないけれど、懐かしい先師がたの写真などをお目にかけつつ、想い出話などを綴ってみようとおもう。
 ここにまず掲げたのは、洋画家青木義照先生の、もっとも脂の乗った時代の写真である。私が三十代のころかと思う。たぶん東急デパートあたりで開かれた個展での一コマかと記憶するが詳しいことは覚えがない。
 青木先生は、郵政省の切手デザインなどを日常の仕事としておられたが、実は、私の絵の師匠である。まだ少年であった時分から、私は、青木先生に水彩、デッサン、油絵、版画、いろいろとお教えをいただいた。それだけでなくて、いつも「林くんは俺の一番弟子だ」と言われて、なにかとかわいがってくださったものだ。私が絵を教えていただいていたころの先生は、まったくの前衛絵画で、抽象画を描いておられたが、その後、突如として具象に転進され、後半生はもっぱら静物と風景ばかり描かれた。とくに静物は独特の渋い緑色を基調としたものがおおく、Aoki Green と称せられた。師匠としての青木先生は、ともかく小手先のわざを嫌悪され、堂々と正攻法で、真面目に描くべきことを諭され、ごまかしの技は厳しく指摘された。私が現在あちこちに絵を描いたり、装訂などデザインの仕事をしたりするようになったのは、ひとえに青木先生の薫陶のお蔭である。先生はもう数年前に、癌で世を去られたが、その易簀の直前に、私は奥さまに呼ばれて、病院の枕頭で、最後のお別れをすることができた。

2010年11月8日月曜日

善き時代の面影

毎年この季節になると、ケンブリッジ大学で研究生活を送っていた時代のことを、そこはかとなく思い出す。ああ、あれはほんとうにほんとうに良い時代であった。わが人生最良の一時代であったと、今にして痛感される。毎日大学の図書館に通って、閉館時間まできっちりと研究する。それだけの繰り返しであったけれど、思えばこれほどぜいたくな時間の使い方などほかには考えられない。晩秋のころには、ケンブリッジを流れるケム川の岸辺の柳が黄葉して落ち、それが水路の底に溜まって、やがていくらか饐えたような匂いがしてくる。秋がまもなく終わって冬になる、とそういう匂いなのだ。ケンブリッジの秋や冬は瞑想的で、静かで、ここ何百年と、その佇まいが変わっていないのではないかと思われる。またあの空気のなかに身を置いてみたいなあ、と、このごろしきりに思う。この写真は、その当時、かのボストン夫人のヘミングフォード・グレイ村の館に住んでいた頃、たまたま国語学者の当山日出夫君が新婚旅行で立ち寄ってくれた、そのときに彼が撮影してくれたもの。その時私は、「将来『林望全集』ってものが出来たときに、その口絵写真に、『筆者のケンブリッジ時代』というキャプション付きで出す写真を撮ろう」とか、戯れに言いながら撮影したもの。背後の塀が、そのボストン邸の古い煉瓦塀である。目前の川は、グレート・ウーズ川。私の第二のふるさと、ヘミングフォード!

2010年11月6日土曜日

観世宗家清和師との対話

絶好の秋日和の今日、日野にある実践女子大まで講演にでかけた。きょうのは、同大学の公開講座の一環であったが、『能と源氏物語』というテーマで、観世流第二十六世宗家観世清和師と御一緒に、能に見る源氏物語の世界をめぐって、話したり、舞ったり、対話したりと、盛りだくさんな一日となった。まず、私が仕舞『野宮』の解釈と概説をしてから、清和師が幽玄かつ蕭殺たる趣の仕舞『野宮』を舞われ、そして次は私の番で、能に見る源氏物語の世界について、平家物語などと比較しつつ、三十分ほど講演。ちょっと休んでから、こんどは同大学の田中英機教授を司会役として、鼎談の形で、一時間たっぷりと話をした。なかで、わざわざお持ち頂いた能装束の解説、また面を付けるところの実演など、ワークショップ的な趣向も交えつつ、清和師は、気さくに、面白い楽屋話なども聞かせて下さって、きょう聞きに見えた方は、きっと十分に楽しんでくださったことであろうと思われる。写真は、その鼎談のときの、清和師と私。

2010年11月5日金曜日

デジ造

かつて、フィルムカメラで写真を撮りためていたころ各地で撮影した夥しいフィルムが、いま書庫に眠っている。これを活用したいと思っても、なかなか難しい。フィルムを雑誌などに貸与すると、いつの間にか無くなってしまうこともあって、こういうフィルムの管理保存はよほど考えてやらないと難しい。そこで、これをスキャンしてデジタルデータに変換しておけば、活用するにも容易だし、またパワーポイントなどでも利用しやすい。そう思って、フィルムのデジタル化機器を買った。まずは小手調べに『デジ造』というごく安価なのを買って試して見ているが、まあスナップ写真のデジタル化を素人がするための機器なので、これを以て仕事に使えるようなファイルを作ることは事実上不可能とわかった。それでも、講演などのときにPowerPointで使用するにはある程度使えそうなので、いまいろいろとテストしてみているところである。いずれ、もう少し高級な、「使えるデータ」が作れる機器を導入したいと思っているのではあるが。この写真は、そのデジ造を使用して、山梨にある山荘の写真をスキャンしてみた結果である。色や傾きなど、付属の写真編集ソフトを使用して補正してあるが、まずまずというところ。どうしてもこういう機器を用いてスキャンしたフィルムデータはピントが甘くなってしまうのがさけられない。

ジュンク堂にて

昨日の夜、池袋のジュンク堂本店にて、講演会とサイン会をやってきた。講演会は、四階のティールームを会場として、五十席ほどのイスを置き、あたかも辻説法風の感じで一時間半、古典と源氏について話をした。みなさん熱心な聴衆で、よい感じだった。そのあと、サイン会でも、それなりに本は買ってくださったが、さてあとで、売り場のほうではどうなってるのであろうかと思って、見にいったら、一階の新刊書とか話題の本とかいうところにはなくて、三階の入口の文学書などの平台にもなくて、探しに探したら、古典文学関係の本のあるところに、臨時にイスを置いて、そのイスのうえに平積みしてくれてあった。これでは少し地味すぎやしないかなあと思ったが、もっとも、きのうだいぶサイン本も作ったので、これからそういうものを、正面の目立つところにも配置してくれるということかもしれないと期待しつつ、戻ってきたところである。

2010年10月29日金曜日

ラムといんげん

 料理というものは決して難しいことではない。あれこれと凝ったことをしても、かならずしもおいしいとは限らない反面、ごく単純な料理にほんとうのおいしさが詰まっていたりする。ここもとお目にかける写真は、今朝の朝食のメニューで、なーに、べつにどうということはなく、ただ、ラム肉とさやいんげんを炒めただけのものである。ラムは、私は朝食で食べることが多い。朝食でラムを食べると、少しも胃にもたれず、すっきりして、しかし満足感があるのだ。というわけで、私は大のラム党なのであるが、この写真の一皿は、ラム肉の脂肪だけで、ほかの油脂分はゼロ。ただフライパンにラムを焼いて、その脂でいんげんを炒めて、塩と胡椒だけで味を付ける。ただそれだけであるが、これが旨いねえ。

2010年10月28日木曜日

素適音楽館

 きのうは大忙しの一日だった。昼間中は、テレビ番組の収録が、私のオフィスであって、夜は講演だったからだ。このテレビ番組というのは、横浜の港北と川崎エリアをカバーするCATV局のYOU-TVというのがあって、その『神山純一のナイス素適音楽館』というトーク番組に出演したのである。ケーブルだから、ごく限られたエリアの人しか見られないのが残念であるが、なかなか楽しいトーク番組になった。写真は、中央がそのホスト、作曲家の神山純一さん、右は司会の小林佳果アナウンサー。番組は三回分収録したが、その三回目の風景で、後ろにピアノが見えているのをみてもわかるように、主に音楽の話をしているところである。とくに、わが愛する大歌曲『あんこまパン』を巡っておしゃべりをしようというところ、前に置いてあるのがそのあんこまパンの実物で、このあと神山さんと二人で舌鼓を打ったが、なかなか結構に作ってあった。また、『謹訳源氏物語』の朗読コーナーも設けたほかに、謹訳源氏を書く話、学問と若い時代の話など、神山さんのソフトでインテリジェントな語り口に誘われて、日頃はあまり話せないことも大いに談論風発、こういう番組をメジャーなテレビ局でやってくれればいいのになあ、と思うことしきりであった。
 夜はまた、白金アートコンプレックスというギャラリーを会場として、和塾という勉強の会の人たちを相手に、源氏物語の話をした。スタッフ以外の参加者は全員女性で、大変に熱心な良い空気だった。この講演会の模様も、上記のテレビにインサートされるはずである。

2010年10月25日月曜日

新井りんご園の紅玉と日の丸皿

林檎の季節がやってきた。今年は夏の猛暑でどうだろうかと案じていたが、例年にも増して素晴らしい紅玉が贈られてきて、ほっと安堵の胸をなで下ろしているところである。今どきは、紅玉もだんだんと作られなくなってきて、まことに遺憾の極みである。なにしろ、私は林檎は紅玉と国光さえあればいいと思っているのである。とくにこの紅玉は、爽やかな酸味が強く、煮ても崩れず、しかも色が天下一品に美しい。通常リンゴは煮ると皮の赤味は褪せてしまうのだが、この紅玉は、完熟ものであることもあって、驚くほど色がしっかりしている。煮てもこれほどに美しい紅が目を打つのである。このリンゴは、信州伊那の新井りんご園というところで、新井学さんという篤農家(もとは学校の先生であった由)が丁寧に減農薬栽培し、葉摘みもせず、しかも十分に完熟してからの収穫をしたという逸品中の逸品で、今年のは、紅玉ながら蜜入りであった。もちろんそのまま齧ってみれば、嗚呼、なんというバランスの良さ。甘味と酸味が天来の美味という感じに凝(こご)っている。それを干しぶどうと白ワインを加えて煮たのが、この写真。パイに包めばアップルパイに適し、そのまま器に盛って食べるもよし、牛乳をかけてApple fool という趣向にしてもよし、チーズと一緒にパンにのせてもよし、これほどの美味はなかなかあるものでない。新井りんご園の連絡先は、
 0265-35-9256 (電話/ファックス兼用)
である。新井さんには未だ面晤を得ないが、昔の教え子のK君が、いつもこれを贈ってくれるのである。
 ちなみに、この林檎を載せてある皿は、「日の丸皿」といって、戦時中に作られた焼き物である。隠れて見えないけれど、真中に赤い日の丸が筆で手描きにしてある。なかなか古拙な味があって良いものである。

2010年10月22日金曜日

テレビCM

これが、先日この欄でご報告したカタログハウスのコマーシャルの一場面である。大山鳴動鼠一匹という感じで、さんざん大騒ぎして長時間かけて撮影したけれど、実際の放映は30秒というはかないもの。それでもほんとうに上手に編集するものだと、さすがその道のプロの手腕には脱帽敬礼のていである。このコマーシャルは、テレビ朝日の『徹子の部屋』と、『情報ステーション』火曜日、の二枠で放映がある。見ているといくつもヴァージョンがあって、毎週違っていたりするので、興味あるかたは、是非ご覧下さい。
このコマーシャルのなかでは、後ろのほうにわが愛する「禁煙団扇」が鎮座ましまして、けっこう目立っている。こんなところでも、なんとか喫煙などという悪習慣を撲滅してしまいたいという一心で、及ばずながら努力しているところである。 

2010年10月20日水曜日

鮎の塩焼き

『謹訳源氏物語』第四巻の見本刷り(本を刊行するとき、本格的に書店に配本されるまえに、見本刷りというものを少部数つくる。これを、刊行に先立つことおよそ一週間くらいのころに著者のもとへ届けてくれるのが日本の出版界の慣行である)が無事届けられた。水色の帯の色も美しく、製本もしっかりしていて、よい仕上がりである。そこでさっそくその完成のささやかなお祝いをした。八王子の豆腐屋うかいという、なかなか愛すべき店に行って、豆腐料理をたべたが、写真はそのなかの鮎の塩焼きである。今ごろの鮎のこととで、子持ちで、鮎としては本格的な味わいではなかったが、子持ちは子持ちでまた別のおいしさがある。骨が非常に柔らかく、頭から尾まで、なにも残さずきれいに食べてしまった。私は、川魚では、天然のヤマメの塩焼きを最も愛好し、鮎はそれに次ぐ。イワナとか、ニジマスなどになると、ぐっと私のなかの評価が下る。さてさて、またがんばって第五巻の続きを書かなくては・・・。

2010年10月13日水曜日

謹訳源氏物語第四巻

 まだ実際に書店に並ぶまでには、二週間ほどかかるかと思うけれど、『謹訳源氏物語』の第四巻の装訂が仕上がってきた。すでに、アマゾンなどでは予約が可能になっているので、第三巻までお読み下さった方は、ぜひ引き続きのご愛読を。
 このあたりから、源氏物語も、ますます劇的な展開をみせ、手に汗握るというか、息もつかせぬというか、この物語の世界もますます深まってくるという感じがする。ほんとうは九月には刊行の予定だったのであるが、六月、八月と、相次ぐ病気に阻まれて仕事が延引し、心ならずも一ヶ月の刊行延期を余儀なくされた。読者の皆様には、心よりお詫びし、またこの先はなんとか遅延なく刊行できるよう、目下最大の努力を重ねているところであることをご報告して、引き続きご支援ご鞭撻をこいねがう次第である。

2010年10月12日火曜日

ほんとうにいきいき

「いきいき」という会員制の雑誌をご存知だろうか。私はこの雑誌に、最近源氏物語についてのエッセイを連載開始したのだが、そんなご縁もあって、10月9日に清川妙さんと、日本の古典文学を巡っての講演会と対談をしてきた。清川さんは、奈良高等女子師範ご出身、現在89歳というから、私の母と同じ歳である。私の母は、もう十三年ほど前に他界したが、清川さんは、いやはや、とんでもなくお元気な方で、頭脳はまったく明晰、表情も豊かに、つぎつぎと面白い話を繰り出される。この柔軟な頭脳・・・それにお人柄も・・・と、積極的に前進していこうする活動性、知的好奇心、プラス思考、すべてが私どもにとってのお手本になるような方である。清川さんは、枕草子や徒然草がご専門で、昔実際に女子教育の教壇に立っておられたというご経歴だが、その後、主婦をされていたところから、また一念発起して作家になられ、さらにいまは、またその酸いも甘いもかみ分けた豊かな人生経験を生かしての、楽しい古典講釈に力を注いでおられる。「いきいき」でも、枕草子についての連載をずっとしておられたが、これがほんとうに深みのある面白い連載であった。また徒然草の連載も最近まで続けておられたし、なおかつ万葉集についてのご著書だとか、古典一般についていろいろと発言をしておられる。この日の会は、ほとんどが清川ファンの集いという感じでもあったけれど、しかし、聴衆の熱心で真面目なことは特筆すべきもの、遠く岩手、広島、佐賀など、各地から駆けつけた(ほとんどはシニアのご婦人がた)聴衆で大変な熱気がこもった。私の話しも熱心に聞かれ、次に清川さんの講演は、講演というより女学校の教室という感じさえした。あとは談論風発、楽しい対談になった。

2010年10月11日月曜日

菊と索麺

高く晴れて、まことにからりと気持ちの良い秋晴れになった。各地で運動会などをしている学校では、さぞよい一日となったことであろう。秋晴れになると、きょうなどは28度くらいまで気温が上がって、半袖でちょうどいい感じである。さては、お昼に冷たい索麺を食べようというので、作った。折も良し、きのう八戸から食用の菊が送られてきたので、この花びらを毟って索麺と一緒に茹で、菊索麺という秋らしい趣向とした。この菊は、阿房宮(あぼうきゅう)という八戸特産の名品で、菊花特有の苦味がなく、見て美しく食べておいしいというものである。今年は気候がよいのか、例年になく見事な花で、食べるのは惜しいくらいであった。さて、その花びらを茹で、索麺を茹で、氷水で冷やし、ご覧のような形に作って、ツユに卸し生姜をたっぷりと加えて食べた。索麺とはちがったサクサクしたような食感と菊の芳香、そして美しい色、菊索麺はふとした思い付きで作ったのだが、秋の食味として上乗のものと見つけた。うまかった。

2010年10月6日水曜日

テレビのCM

 こないだ、カタログハウスのテレビコマーシャルの撮影をした。たった十五秒ほどのコマーシャルなのだが、撮影は非常に大掛かりで、吃驚仰天。撮影は西荻窪の民家を改造したハウススタジオを借り切って行われた。このシーンは、通販生活を手に、いろいろとインタビューを受けているところ。こちらがわの後ろ向きの人が監督で、すべてを仕切っている。それから、コンピュータを前に仕事をしているシーンだとか、じっくりと通販生活をながめているシーンだとか、いろいろととって、それをうまく編集するのである。このCMは、通販生活の秋冬号のそれだときいたので、おそらく間もなくオンエアになるのではないかと思うけれど、全国放送で、テレビ朝日のニュースステーションなどの時間帯に放送されるらしい。乞う御期待。

2010年10月3日日曜日

ああ、秋!

 このごろの日本は異常な気象がだんだんと普通になってきて、夏はひたすら暑く長く、冬は毎年暖冬ばかりで、ときどき豪雪、みたいな感じである。そうして、もっとも気持ちよく美しい季節である春と秋は、どんどん短く貧弱になっていくような気がする。ふつうだったらもうとっくに秋風が吹き、秋草が咲く季節になっても、連日猛暑日に熱帯夜というありさまで、いつになったらあの気持の良い秋が来るんだろうと、ずいぶん気を揉んだところだった。しかし、暑さ寒さも彼岸までの諺どおり、彼岸の中日を境に急に秋らしく冷涼な日々となった。けれども、こういう気持ちのいい日々は長くは続かない。まもなく暗澹たる霖雨や、台風や、そしてあっというまに冬の寒さがやってくる。
 この写真は、先日豊前を逍遥した折に撮影したもので、秋らしい高い空に、一面秋草の咲き敷く田園、これこそ日本の秋の原風景である。このあたりの田んぼでは、まだ稲刈りは始まっていなかった。が、もう稲穂は実って、秋空によく似合っていた。ああ、美しい秋!
  早稲の香や分け入る右は有磯海  芭蕉

2010年9月29日水曜日

柳ケ浦と唐揚げ


24日には、博多の初村第一倉庫株式会社創立五十周年記念講演会という催しで、講演をしてきた。この会社の社長の初村純一君は、かつて慶応義塾大学の一年生のときに、同じクラスで仲よくなり、のんびりと遊び回った友だちであったが、卒業後はすっかり没交渉であったところ、ふと福岡でこの会社の倉庫の建物を目睹して想い出し、それからまた友情を復活したというわけであった。人の縁というものは面白い。そして翌日25日は、恒例、苅田町町づくりカレッジの特別講演で源氏の話をしてきた。このカレッジの名誉学長を拝命してもう五年ほどになるだろうか。今年はぎっしり満員の盛況で、楽しい一時であった。そのあと、豊前方面を探索にでかけ、能の清経ゆかりの宇佐八幡と柳ケ浦を巡遊して戻ってきた。とちゅう中津名物鶏の唐揚げというので、写真の上は、それを路傍の唐揚げ店で買い食いして舌鼓を打っているところ。写真の下は、くだんの柳ケ浦である。おそらく、清経の時代の柳ケ浦は、現在かなり内陸になってしまっているかと想像され、海岸からすこし入った橋のたもとに謡蹟の石碑が建っていた。現在の柳ケ浦は広大な干潟を形成していて、折からの引き潮に、鷺やカモメなどの鳥たちがのんびりと餌をついばんでいた。

2010年9月20日月曜日

放射線医学と源氏物語

 だんだん秋らしい感じになってきた。けれども今年は、一日二日涼しい秋日があると、すぐにまた蒸し暑さが戻る。やはり正常な季節の推移ではない。
 きのうもずいぶん暑かったが、横浜で開催中の日本放射線医学会大会で、特別講演を頼まれて源氏物語の話をしてきた。学会は、この写真のパシフィコで開かれ、その大ホールで話をした。来聴のお医者さんたちも、放射線医学とは毫も関係のない源氏物語の話には、ちょっと面食らったかもしれない。どうしてそんなところで講演をすることになったかというと、私の息子が放射線医で、今回の学会はその息子の指導教授にあたる先生が主催責任者であったからだ。学会といっても、医学の学会は、文学の学会とは大違いで、製薬会社などのスポンサーもたくさん賛助してそれは盛大なもの、はじめて医学の学会に足を踏み入れたが、文学のそれとは天地雲泥の違いがあって、なにかとびっくり。それなりに面白い経験であった。

2010年9月12日日曜日

耳で聴く源氏物語

 きょうは、横浜の神奈川近代文学館のホールで、耳で聴く源氏物語、という朗読会をやってきた。源氏物語は、もともと宮廷のサロンを中心とした、小さな貴族の座で、女房たちが朗読して聴かせ、それをみなが聴聞するという形で享受されたものであった。それゆえ、この古式に倣って、原文も、また謹訳源氏物語も、朗読という形でセッションをして、それを聴衆にはもっぱら耳で聴いて味わって頂こうという趣向である。謹訳は私みずから朗読、いっぽうの原文の朗読者としては、俳人として大変ご高名な西村和子さんに特にお願いしてご出演願った。西村さんは、ご自身も『季語で読む源氏物語』という御著書をお持ちではあり、また、源氏物語を読む会も主宰しておられるほどで、源氏には頗る通暁しておられ、そもそも私と同じ慶応義塾の国文科のご卒業で、私より一年先輩に当たる。だから、ただ読むというだけでなくて、原文の味わいをよく心に刻みながら丁寧に読んでくださって、おかげで私も謹訳の朗読がたいへんやりやすかった。もっとも、全部で7セッションやったのだが、原文を先に読んでから謹訳を読む、謹訳を先に読んでから原文を読む、あるいは一節ごとに原文・謹訳と組み合わせて読む、あるいは、夕顔の死の場面などは一文ごとに原文・謹訳を斬り結んで緊迫感を味わっていただく、また、帚木や松風などは、原文は朗読せずにプリントして配布し、原文を目で追いながら私の謹訳朗読を耳に聞く、というやりかたを交えもした。そういうふうにいろいろな実験を試みながら、7セッション。全部で二時間の朗読会は、しかし、あっという間に過ぎてしまった。楽しかったので、これはぜひ、各地へ持って行って公演したいと、西村さんとこもごも語り合っているところである。

2010年9月6日月曜日

穴子のお寿司

 こう暑い毎日だと、ご飯はすっきりさっぱり、寿司飯が咽喉を通りやすい。と思っていたら、渡りに舟、炭屋の穴子を下さった方があって、さっそくこれを以て穴子の混ぜ寿司を作ることにした。この場合は、穴子の風味を生かすために、あれこれと具は入れずに、さっぱりした仕立てにしたい。そこで、通常のごとく酢飯を切って(私の酢飯は、米二合に対して、酢は二勺、そこへ砂糖大さじ一杯半、塩小さじ一杯程度、これをよくとかして、炊き立ての飯にふりかけ、飯台でよく切りまぜてから、一切煽いだりせず、しずかに寝かせて自然に冷ます。そうすると飯はしまってすっきりした寿司飯になる。これは寿司屋の寿司飯よりもずっと薄味)、具は軽く炙って一口に切った煮穴子、小四本。三つ葉一束、青じそ十枚ほど。三つ葉はザク切り、シソは繊切り、そして軽く混ぜて食べる。ただこれだけのことなのだが、じつに旨い。飯三膳は軽く進んでしまう。きょうはそこへ、大根とセロリのマリネサラダ、椎茸と焼き豆腐の澄まし汁、まずは気持ちのさっぱりする夕食であった。

2010年9月2日木曜日

諏訪湖

 ちと所用あって、昨日今日と名古屋まで一っ走りしてきた。東京も暑いけれど、名古屋の暑さはまた別格で、とくに夜の蒸し暑さには閉口頓首というところだった。往きは富士山麓を抜けて東名経由で行ったのだが、やっぱり混んでいて走りにくい。そこで帰りは中央高速を通って帰ってきた。写真はその途中、諏訪湖の夕景である。以前は、中央高速も、この辺りまでくると結構涼しくなり、このさき、八ケ岳高原の原PAあるいは八ケ岳PAあたりはすいすいと冷涼な感じでよかったものだが、きょうはどういうものか、どこまで走っても、車の外気温計は三十度を下回らない。こんなことは今まで例のないことで、この熱波は異常な厚さで日本列島を覆い尽くしているものと見える。それでも、中央道は空いていて、走りやすいことは東名の比ではなく、なおまた甲府あたりからは、正面に富士山が見えて良い景色であった。名古屋あたりはドライブするのにはちょうどいい距離だなあという感じがする。楽しい一日ドライブであった。

2010年8月29日日曜日

野宮

 昨日は、新宿の朝日カルチャー内の能舞台で、『能と源氏物語』の講座の第二回をやった。今回のテーマは、六条御息所を主人公とする名作『野宮』。前回同様、坂口貴信君に来てもらって、妹の翠君とともに、実演を交えて能としてのあれこれを面白く演奏してもらった。私は、もっぱら原作の葵、賢木などの巻々に見える六条御息所その人について、主に詞章方面から解説したが、なんといっても、貴信君が、じっさいに「増(ぞう)」の面を三面持参してくれて、その比較や、実際に面をかけてみることについてのノウハウなど、面白い話をしてくれたのは、今回の目玉企画であった。左の人は、受講者で、生まれてはじめて本物の能面をかけてみているところ。ただし、面の裏側に当てをつけないで、ただ面をかけると、実はせっかくの能面が全然生きない、ということを知ってもらうためにつけているので、彼女の面のかけかたは、実は正しくないのである。右が貴信君と、翠君。こちらはちゃんと当てをつけて正しい位置にかけてみているところ。面をかけるとき、凛とした空気が張りつめる。

2010年8月26日木曜日

水永牧子リサイタル

 きょうは、新宿オペラシティ、近江楽堂において開催された、チェンバリスト水永牧子さん(写真左)のリサイタルに、ゲストとして出演してきた。後半の頭に十五分ほどイギリスと音楽の話をして、あとはスペシャルサプライズと称して、アンコールで共演の広瀬奈緒さん(写真右)と、ヴォーン=ウイリアムズの「リンデン・リー」を二重唱した。なにぶん、昨日までは長引く夏風邪が治り切らず、歌おうとすれば咳き込むという調子で、どうなることかと思っていたばかりか、広瀬さんも一昨日突如として高熱を発して倒れるという一大事が出来して、はらはらしたが、幸いに、二人とも本復して奇跡的に演奏会は無事終了した。源氏で忙しく、このところ、ちょっと演奏会とは遠ざかっていたので、ひさしぶりの舞台だったけれど、でもさすがに名手二人とともに歌ったのは楽しかった。近江楽堂は、はじめて行ったが、こぢんまりとして、まるでちいさなチャペルのような会堂で、ほんとうによい音響であった。楽しかった!

2010年8月19日木曜日

復活

大変ご心配をおかけしておりましたが、ようやく今朝から、だいたい体調も復してまいりました。今日から仕事に復帰します。まったく、悪質な風邪で、まだ完全には抜けていないけれど、あとは気力でやっつけるというところです。
この写真は、わが敬愛する祖父、林季樹(すえき)の大礼服姿で、祖父は、江田島を出た海軍軍人であったが、結局将官にはなれず、昭和の大軍縮のときに予備役編入となった。今で言うリストラされてしまったのである。しかし、その後は国語漢文の教育者として復活し、ごらんのようなハンサムであったので、川村女学校などでは大人気であったと聞く。戦後はずっと長い長い隠居生活を送った末に九十一歳で大往生した。真面目を絵に描いたような、ほんとうに愛すべく敬すべき祖父であった。

2010年8月16日月曜日

閉門

数日前から、いやな夏風邪に冒され、きょうなどは、ずいぶんと熱が出て朦朧として過した。いっこうによくなる気配もない。ところが、これがどこでウイルスをキャッチしたものだか見当もつかない。私は『風邪はひかぬにこしたことはない』(ちくま文庫)という本を書いたくらい、風邪の予防にはあらゆる手を尽して、変人奇人呼ばわりされているくらいなのだ。おそらくは、先日の日比谷での美楽舎講演か(これがいちばんアヤシイ)、そのあとの武蔵野自由大学での講義か、そのあたりのところで感染したものだとしか思いようがない。それにしてもずいぶんとひどい風邪で、こういうウイルスをまき散らした人間を草の根を分けても探し出して文句を言いたい気分であるが、むろんそれはわからぬ。こんなことでは、いっそ「閉門」という大看板を出して、いっさいの面会も、講演も、講義も、なにもかも謝絶して、ひたすら草廬に隠遁したいとまで思うけれど、それもままならぬし・・・。とかく風邪には効く薬がないというのが、もっとも困ったところである。ともかくひどい気管支炎状態で、息苦しく、横にもなれない。これでまた源氏執筆を初めとしてすべての仕事が押せ押せで遅れてしまう。私にとっては、風邪を引くことは、すなわち経済的にも大打撃なのである。

2010年8月13日金曜日

生命の木

この絵は、私の娘の春菜が、描いて贈ってくれたものである。春菜は、ロンドン大学のゴールドスミス芸術学校を卒業して、アーティストの道を進むのかと思っていたら、今はアメリカのヴァージニアで「お母さん」業にいそしんでいる。しかし、ときどきこういう絵を描いては、家に飾ったりしているようである。夫のダニエル君はバプティスト派の牧師さんなので、彼らの家のなかにはキリスト教的な雰囲気が横溢していて、その意味で古き良きアメリカを垣間見る思いがする。この文言は、ヨハネ伝福音書の第三章第十六節「それ神はその独り子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠(とこしなへ)の生命(いのち)を得んためなり」ということだそうである。

2010年8月11日水曜日

簡単フォカッチャ

最近は、自家製フォカッチャを作るのを楽しみとしている。これがまた非常に簡単にできておいしいのだ。この写真は、その焼き立ての姿だけれど、これで一切オーブンなどは使わない。ただ生地をニードして、薄く手延べして、すこしたっぷりめのフルーティなオリーブオイルをフライパンに入れて、蓋をして両面こんがりと焼くばかりである。作り始めから出来上がりまでおよそ十分。これほど簡単でおいしいパンはまたとない。詳しい作り方や材料の分量などは、近く、お料理の連載を開始する予定なので、そこに書くことにしたい。この写真をみると、あたかも卵黄でもつかってあるかのように見えるが、卵黄もバターも一切使わない。使うのは低脂肪牛乳だけである。だからこうみえて非常にヘルシーだというのも、まず保証つき。今回はレーズンなど入れてみたが、これまた結構至極。朝食の時になど、下手な出来合いのパンより、出来立てのこのフォカッチャのほうが百倍おいしい。

2010年8月9日月曜日

むかしの小金井薪能

8月になると、毎年小金井薪能が、都立小金井公園で開催される。この催しは、今を去ること三十数年前に、わが師津村禮次郎師と私とが発案して、手作りで始めたもので、今年はその三十二回になる。今年は8月29日の夕刻からで、演目は、津村師の新作能『朱鷺』と、『鞍馬天狗』の半能ということである。現在も私はこの薪能主催の団体の役員ではあるが、実際には、もっと若い人たちが運営するということになっている。この写真は、その小金井薪能のずっと昔の写真(石橋)で、撮影は森田拾史郎氏。この写真をよくご覧いただきたい。右のほうに写っている裃をつけた地謡の左から二番目に、私が写っている。此の頃は津村師の演能には、たいてい地謡方として出演していたのであった。たぶん私がまだ三十代の前半くらいであろうか。珍しい一枚、とくとご覧あれ。

2010年8月7日土曜日

美楽舎展にて

きょうは、日比谷のさるギャラリーで開催されている美楽舎という団体の展覧会で、芸術と生活ということについて、講演をしてきた。この美楽舎という団体は、まったくふつうのサラリーマンなどでありながら、こつこつと美術品を蒐集することを楽しんでいる人たちの集まりで、きょうはその共同の展覧会なのであった。私は、とくに川瀬巴水の木版画の家蔵品をお見せしながら、生活のなかに芸術があることの意味や、蒐集の態度についてなど、ひろくお話しをした。
この写真の左に写っている人は、そういうサラリーマン美術収集家として令名の高い山本勝彦さん、筆名山本冬彦さんという方で、この団体主要メンバーの一人。もし酒やゴルフや賭事などに費やす時間と金があったら、せいぜい画廊めぐりでもして、無名の、しかし才能豊かな若いアーティストを探し出し、眼力を以て良いものを鋭意蒐集したほうがよい。そういうことで、この国の芸術の力はぐんと上がっていくはずである。林 望

旧調布飛行場のタンクバリア

この妙竹林なものは、もとの米軍関東村、さらにその前を辿れば東京調布飛行場であった場所に置かれているコンクリートの塊である。ここは、もともと陸軍が使っていた飛行場であったが、戦後米軍に接収され、一部は関東村となった。しかし、その部分は返還されて、現在味の素スタジアムその他の施設に利用されているが、一部は、芝生のひろびろとした運動場となった。そこが今さらに野球場やらなにやらを作るために工事中である。このコンクリートは、その入口にを扼するように置かれていたものが、工事に際して撤去されてこうして脇に置かれているのである。私の想像では、このコンクリートは、戦時中に飛行場として使われていたときに設置されたアンチ・タンク・バリアではないかと思う。こういうものは、イギリスの田舎でもときどき見かけるのだが、多くは橋などに置かれて、敵国の戦車の侵入を防ぐためのものである。このコンクリートの味わいは、いかにも戦争中のものという時代がついていて、これを捨ててしまうのはもったいないなあと思うのだが・・・。果たしてこの私の想像が当たっているかどうか。ほんとのところをご存知のかたあらば、ご教示ねがいたい。

2010年8月2日月曜日

いわき市遠野町うつつ庵


福島県郡山市立美術館に招かれて、昨日、ビアトリクス・ポター展の特別講演に行ってきた。ポターのことを話したというよりは、ポターやピーター・ラビットを産んだ時代の思潮、イギリス的なものの考え方という話をした。猛暑のなかであったけれど、来聴者は超満員の盛況で、ぎっしりと立ち見が出るほどだった。午後三時半ころに講演を終了して、ただちに帰途についたが、常磐道も日曜午後の渋滞が予想されたので、途中磐越道の小野で降りて、常磐道いわき湯本までのあいだは、ひたすら山間部の国道を右往左往しながら、東北の夏を見物してきた。なかなか風光明媚で山深いよいところだった。もういわきも近くなった、遠野町上遠野というところに、うつつ庵という手打ちの蕎麦処があって、さっそくここに立ち寄ったところ、嬉しいことに店内完全禁煙とあった。蕎麦はいわゆる更科の白い蕎麦と、田舎蕎麦と両方あった。私はかねて更科系を好むので、そちらを頼んだのだが、ふむ、なかなか結構な味わいであった。車の旅は、こういうふうに時間にも径路にも縛られず行った先々で自由に食事などを楽しめる、そこにいちばんのメリットがある。