2012年12月31日月曜日

2012年大年

激動の、そして呆れ返った2012年も、とうとう最後の日になってしまいました。
一年はあっという間です。
そして、おそらく一生もこうやってあっという間に過ぎていくのであろうという感慨がしきりと去来します。
おかげさまで『謹訳源氏物語』も、ただいま第九巻を最終校正中で、新年早々にはリリースの運びとなりました。残るはあと一巻。第十巻にも、まもなく着手しますが、なにやら名残惜しい気持に駆られる日々でもあります。第十巻の刊行は六月の予定で、遅延のないように最大限の努力を傾けたいと思います。十巻成就の後は、このあまりにも素晴らしい文学の至宝について、できるだけ多くの人にその面白さ美しさを解っていただけるように、全国、いや世界のどこへでも出向いて講演活動などに精出したいと思っています。
どうぞみなさま、相変りませずご支援ご鞭撻のほどお願い申し上げます。
この写真は、先日大阪のほうへ講演に出向く途中、伊那谷において撮影した南アルプスの連山です。白きたおやかな峰々。よろずこのように、凛乎として、またきよらにありたいものです。
  大年の閑寂なるを愛しをり    宇虚人

2012年12月18日火曜日

巻爪退治

どうもいきなりに、かようなむさくるしい足の爪をお目にかけるのは、まことに申し訳もなきことながら、ちと御勘弁をいただいて、目下進行中の巻爪治療のことをご報告したい。
実は、私は、もうずいぶんと昔から、この右足の親指の左側が巻爪状態で、放っておくと、しだいに爪が肉に食い込んで赤く腫れ、ギンギンと痛み、なおかつ、中が化膿して腫れ上がったりして、じつに具合が悪いのであった。
そこで、半年に一度くらい、近所の行きつけの外科の先生に頼んで、食い込んでいる部分を外科的に切除してもらうと、嘘のように痛みがなくなるのはいいけれど、その手術たるや、麻酔などもなく、いきなり外科用のハサミの切っ先を生爪のなかに突っ込んで、生えてくる根元近くまで切り込むのだから、たまったものではない。むしろこれは、戦争中のスパイの拷問もかくやという壮絶な痛みであって、そこを先生は看護師の人たちといっしょに、わが足を押さえつけて、無理押しに切るのであった。
これはどうもかなわぬと思っていたら、勧める人があって、毎々そんな拷問に耐えずとも、よい治療法があるということを知った。
そこでさっそく行ってみたのが、ドイツ式の樹脂板を貼り付ける方法である。
また例によって、指が真っ赤に腫れて歩くのにも難儀するような痛みになってきたので、さっそく西荻窪の治療院へ行ってみたところ、ご覧のような薄いファイバー板を強力な接着剤で貼り付けるのであった。その前に、爪の表面から生え際まで、きれいに整斉し、かつ徹底消毒などしておいて、そのうえで、丁寧にこの三枚を貼り付けた。
するとその当日はちょっとした圧迫感があったけれど、痛みはたちどころに消え、二日目には違和感も消え、いまでは、このように、爪が平らに伸展して、もう食い込みがきれいになくなっている。これで何ヶ月か、樹脂板を張り替えなどしながら、伸ばしていくのだそうだが、これはほんとに巻爪の人間には福音であって、まことに素晴らしいなあと思った。
こんなふうに横幅広く伸展している足の親指を見たのは、何十年ぶりであろうか。ドイツ人はたいしたものを発明してくれたものと、大いに感謝のあまり、この写真をご披露することにしたというわけである。へい、ごめんくださいまし。

2012年11月30日金曜日

冬じまい

ことしはまた寒い冬になると予報が出た。
例年、12月になると、山梨県の白州にある山荘の冬じまいに行くのだが、今年は、少し早めにしまいにいった。寒波がくると、どうかすると水道が凍ってしまうこともあるので、『謹訳源氏物語』第九巻を脱稿してすぐに、片づけにいったのである。
白州は、もうすっかり初冬のたたずまいで、紅葉はほとんど終りに近く、地面には一面に枯葉が散り敷いていた。そのふかふかとする落葉を踏んで、家の回りを掃除し、水道などの始末をする。それはまたそれで、ちょっとした風情がある。
もうこのところ、忙しくてなかなか山荘へ骨休めに行く事もできないので、毎年三月の末に山荘開きに行き、十二月の初めに冬じまいに行くというだけのことで、じっさいには滞在して休日を楽しむこともできないのは非常に残念な気がする。ここはとても良いところで、行けば空気が良く、風景も静謐でなんともいえない。冬には、薪ストーブなど燃やして、炎を眺めているだけで格好のリラクゼーションになるのだが・・・。
それで、この頃は、この家を売ろうかなあと、夫婦でいつも相談するのだが、いざこうして行ってみると、やっぱり居心地がよくって、なかなか売れないなあと言いながら帰ってくる。
『謹訳源氏物語』も、来年の春には全巻完成の予定なので、それが成就したら、夏でも秋でも、すこしまとめて骨休めに行こうかなと、せめて今はそれを楽しみにしているところである。

2012年11月12日月曜日

曽根新田

すっかり更新をせぬまま、とうとう十月も過ぎ、はや霜月となってしまった。
もう冬である。この間私は、謹訳源氏の書き上げに全力を傾注しながら、しかし、秋とあって講演の仕事も多く、東奔西走のなかで、ほとんど休みなく仕事に没頭していたというのが本当のところ、じっさい、さすがの私も相当に疲労困憊の日々が続いている。
さるところ、十月の月末は神戸まで源氏の話をしに出向き、この週末はまた、北九州の小倉にある北九州市立大学まで、こんどは知性論的な話をしに行ってきた。さすがに九州ともなると、車ではいかない。飛行機で行ったのだが、帰りには全日空の最新鋭機、話題のB787に初めて搭乗し、じつに快適なるフライトであったし、またサービスも全日空はまさに痒い所に手が届くという行きかたで、日航はまだこのレベルには達していないという実感がある。
さて、写真は、講演までの時間が少しあったので、小倉のすぐ南にある曽根新田のあたりを逍遥してきた時の一枚で、遠くに見える橋は、北九州空港への連絡橋である。その連絡橋近くまで、はるかに潮が引いて、広大な干潟が現れているのが見て取れる。このあたりは、この干潟を目当てに白鷺などの鳥も多く集まり、なかなか豊かな自然が残されている。そしてまた、岩牡蛎などの養殖もだいぶ盛んに行われているらしい。こういう干潟を見ていると、ここに息づく無数の生物の息吹のようなものがそこはかなく感じられて、心の慰安を感じるのである。

2012年9月18日火曜日

夕顔はおいしい

このところ、いろいろな方から、素敵な野菜をたくさん頂戴する。まことにありがたいことである。
この巨大なるものは、かの夕顔の実である。すなわち、干瓢の材料になる野菜だが、干瓢はいくらも食べたことがあるけれど、生の夕顔は、ふつう東京の八百屋さんには売ってないので、いまだに料理したことも食べたこともなかった。それが、こたび、糸魚川のほうから送っていただいた。さてこれをどうして食べるかと、考えた末に、ほんの三分の一ほどを切り取って、皮を剥いたあと、ピーラーで薄く削ってから、電子レンジで10分ほど加熱して脱水し、それを油揚げと一緒に炒め煮にした。いやあああああ、じつに美味しい。干した干瓢を戻して煮たのよりずっとこの生のほうが風味がよい。すこしぬめっとして、こりこりと歯ごたえがあって、まことに結構なものであった。東京のスーパーでも売ればいいのになあ。
  夕顔を煮て飯炊いて佳き日なり   宇虚人

2012年9月15日土曜日

久保ファームの蓮根

残暑は依然として収まる気配がないが、きょう、やっと今年の新レンコンの第一回が入荷した。
例によって、まいど贔屓にしている久保ファームのレンコンである。
去年は、一番肝心のときに台風にやられたとかで、作柄がイマイチだったとのことだが、今年は、台風も来ず、よい作柄と見える。
かねて、お盆すぎには、新物の収穫に入るので、そしたら送って欲しいと頼んでおいたのが、稍遅れて、きょうが今年の第一回となった。
クール便で送られてきた段ボールの箱を開けると、なかには、青々として瑞々しい蓮の葉に包まれた美しいレンコンがみっちりと入っていた。この蓮の葉の色の美しいこと、つい嬉しくなって葉もレンコンももろともに写真に撮った。
そして今晩、一本をオリーブ油でソテーして食べたが、充実して素敵なレンコンであった。これからは梨とレンコンの季節で、いずれも気管支の妙薬ゆえ、嬉しい季節になった。

2012年9月5日水曜日

ギプスは取れたけど

どうも困った。
かねて、お医者様からそのように伝えられてはいたのだが、やっとギプスをはずしたら、案の定、指先がちょっと曲ってしまって、まっすぐにはならないのであった。これで普通だというのだが、さてさて、脳味噌のほうは、まっすぐな指先の位置を記憶しているので、どうしても、なにかしようとすると、指先の見当が狂ってひっかかってしまう。それで、またまたイテテ、ということになるので、もうしばらく、注意して暮しながら、脳味噌の記憶が修正されるのを待たなくてはならぬなあ。ああ、人間の体というものは、ほんとに微妙な精密なものだとつくづく思い知った。
  ホウタイを取れば指先に秋風   宇虚人

2012年8月28日火曜日

やれやれ


まことに人間の体というものは、微妙なバランスの上に成り立っているものだと、つくづく痛感している。
かねて負傷中の左手の薬指は、まだ治らないが、もう固定して一ヶ月と十日ほどたった。この間、他の指には異常な負荷とモーメントがかかるものと見えて、このところは、あちこちの関節に異常な痛みが発生して、もう、ほんとに困りはてているところである。
とくに今日は、親指の付け根の関節にひどい痛みが発生して、ほとんど物を持つこともままならぬ有様となった。
これでは困るので、明日にでもまた「手の外科」の門をたたこうかと思っているのだが、なにしろ、もとの腱断裂がなかなか治らないのが困る。
一種の老化現象であろうけれど、なんとかならぬものかなあ。イテテ。

2012年8月27日月曜日

詩のしごと


 私は、高校生のころに、詩人になりたいと思っていた。けれども、詩人になるのは簡単ではないので、国文学者になった。それでも、詩を書くことは、私の心の癖であって、歩いていても、旅していても、風呂に浸かっていても、いつも澎湃として詩が心にわきおこる。詩魔のようなものが心に住んでいるのである。そこで芸大に奉職するようになってから、歌曲や合唱曲などのために、おびただしい詩を書いてきた。写真は、そういう詩業のなかの一部分である。『新海潮音』は、イギリス古今の恋愛詩を私なりに訳したもので、それぞれの時代に相応しい日本語で古典的に訳してある。そのむこうの『あんこまパン』は、CDブックで、『あんこまパン』『めぐる季節に』『ゆけ、わが想い』の三作品(いずれも伊藤康英作曲)を楽譜CDとも一冊にまとめておさめてある。なかでも、『あんこまパン』は、私の愛唱歌で、もうずいぶんあちこちの舞台で歌ってきた。左のほうのCD二枚は、『夢の意味』『鎮魂の賦』を収めた東京混声合唱団の録音で、いずれも上田真樹作曲、いまや合唱界のスタンダードになってきた感がある。その下の『美しい星に』は、佐藤眞さん作曲の合唱組曲で、那須野が原ハーモニーホールの委嘱作品。このほかに、佐藤さん作曲の作品には『いきてゆく』という江戸川少年少女合唱団の委嘱作品がある。それから『夢の意味』の楽譜。さらに、詩画集『夕暮れ巴水』が、いちばん向こう側に置いてある。
 今私は、新しい抒情歌集『ふるさとへ』を作詩したところで、これは来年の春に佐野成宏さんのリサイタルで初演される予定である。こういう仕事の延長線上に、新作能『聖パウロの回心』や、オペラ源氏物語『MABOROSI』などの仕事があるのである。今も、詩を書いているときが、いちばん楽しい。

2012年7月31日火曜日

善光寺

七月最後の週末は、長野の善光寺表参道での講演会に出向いた。
善光寺境内、大本願の地下ホールに、大勢のかたがたが集まってくださって、私の話に耳を傾けられた。
今回は、『古典文学と地名と魂』というテーマで90分の話をした。
主に『古今集』巻二十の大歌所御歌にスポットを当てながら、『万葉集』や能楽、『大和物語』など、さまざまの古典作品にわたって材を採りつつ、いかに日本の地名には大切な魂が宿っているか、そしてそれを和歌などに読むことにどんな意義があるか、ということを語った。
信濃での講演なので、シナノという地名のことや、信濃の東歌などにも話を及ぼした。
さて、写真は、その講演に先立って、少し時間があったので、車を駆って、近在を見物して歩いた。その道々、旧北国街道の北側にひっそりと静まっている田子池という池に遭遇した。この池は釣りをする人には良く知られているらしいが、北岸には古墳などもいつくかあって、由緒のある古い池と見える。
岸辺には林檎の木が繁り、はやくも青い林檎がたくさん実っていた。
素晴らしい好天で、非常に暑い日であったが、この写真からも、強い紫外線のありようが見て取れるようだ。
緑が滴るようであった。

2012年7月18日水曜日

とんだ災難

人間、どこに災難が転がっているか、まったくわからぬ。
今朝、ズボンをはこうとした瞬間、なにやらポキッっという音がして、左手の薬指が鉤の手に曲ったまま伸展しなくなってしまった!
慌てて「手の外科」という看板を出している整形外科へ駆けつけて、調べてもらった結果、これは左手薬指の腱が断裂しちゃったので、ギプスで固定して約二ヶ月ほど、腱がまた再生するのを待つべし、とのこと。
このクソ忙しいのに、まったく不自由だけれど、こればかりはなんとも仕方がない。別にたいして力を加えたわけでもないのに、と思うけれど、お医者さまの言うには、なにかの拍子に、プツッと切れたりするものなのだそうだ。
ま、運が悪かったというほかないが、それでも、丁寧に対応すれば自然に再生して治るというので、ホッとした。

2012年7月9日月曜日

追悼・畑中良輔先生

七夕の昨日、都立青山斎場にて、日本声楽界の重鎮、畑中良輔先生の「お別れの会」が開かれた。
私も、先生晩年に知遇を得て、たいへんに良くして頂いたので、この会の発起人の末席に連なった。
先生は、すばらしいバリトン歌手として、特に戦後の日本オペラの正統的な発展に大変に大きな寄与をされたばかりでなく、新国立劇場の芸術監督としても後世に残る業績を残された。そのいっぽうで、東京芸術大学の教授としては、夥しい声楽家を育て、まさに名伯楽としての名声も天下に響いている。
そればかりか、作曲家としては『花林(まるめろ)』に代表される名歌曲を数多く作曲され、日本の歌曲に豊かなレパートリーを加えられたことは特筆すべきところであろう。
さらにさらに、わが慶應義塾大学ワグネルソサエティの合唱指揮者として、半世紀を超える長きにわたって熱血的指導をされ、戦後のワグネルは畑中先生なくしてはとうてい今日の隆盛を見ることはなかったに違いない。されば、お別れの会に於て、オールワグネルの大合唱団が、タンホイザーの大行進曲を全力歌唱して、満場を感動させた。私も恥ずかしながら、これには涙を禁じ得なかった。
私自身にとって、先生はながらく、遠く仰ぎ見るだけの存在であったけれど、いつのころからか、「リンボウさん、リンボウさん」と、親しくさせていただき、青の会、水戸芸術館クリスマスコンサート、そしてこの三月の『ブル小屋ごちゃまぜコンサート』等、先生主宰の演奏会に、何度も「バリトン歌手」として呼んでくださり、わが『あんこまパン』などの曲を客演独唱する機会を与えてくださった。この『ごちゃまぜコンサート』は、先生の生涯最後の演奏会となったのであったが、そこに私も参加させて頂いたことは、一生の記念となった。
それから間もなく、五月二十四日に、先生は忽焉として白玉楼中の人となってしまわれた。まことに悲しいできごとであった。寿、実に九旬。
先生はその最晩年に至るまで、いつも湯上がりのように清潔で血色よいお顔をしておられ、ダンディぶりは常に変らなかった。そして厳しい指導でも知られたが、その指導の底には常にまた温かい心が脈打っていて、誰からも深く敬愛されたところであった。一度でも親しく先生の謦咳に接した者は、その優しいお人柄、またお茶目なユーモアのセンスなど、先生の魅力に取り憑かれてしまうと言っても過言ではなかったろう。
一言で申すならば、先生はまさに、「品格」が人間の形をしている、とそんな存在であったろうか。
先生のご冥福を祈る。合掌。

2012年7月3日火曜日

謹訳源氏第八巻刊行

ながらくお待たせいたしました。
 謹訳源氏の第八巻が、やっと店頭に並びます。
 第七巻から、ずいぶんと間が空いてしまって、皆様方からお問い合わせを頂戴し、また、ご心配をいただきまして、恐縮いたしております。
 なにぶん、この巻は、450ページにも及ぶ厚冊で、読みでは十分、それだけに書くのも、また校正するのも一筋縄ではいかない長さでありました。
 いよいよ源氏の没後、その子孫たちの物語が始まります。
 いわゆる匂宮三帖という巻々は、いささか過渡的なところがありますが、橋姫以下の、宇治十帖は、また本編とは違った語り口、興趣があって、これはこれで、またなかなか読みごたえのある物語です。
 なお、第九巻の刊行は、年末近くになるだろうと思いますが、これから夏休み返上で執筆にいそしむというところです。

2012年6月15日金曜日

駄菓子

まことに長らく更新を怠っておりまして、大変に申し訳ありません。このところずっと、『謹訳源氏物語』第八巻の校正等に追われて、捩り鉢巻き状態でした。
さて、ここもとお目にかけますのは、駄菓子であります。
昔は、駄菓子屋というものが、学校の近くなどにあって、級友たちはしばしば立寄るようでしたが、私どもはお金というものを持たずに暮らしていたこと(それは私どもの時代には当たり前であった)、それから駄菓子屋に立寄って買い食いすることを禁じられていたこと、この二つの理由から、子供時代に駄菓子屋というものに入ったことはありませんでした。それゆえ、駄菓子の味というものは、まったく記憶のなかになく、何の懐かしさも感じないのですが、つい最近、近所の中古本屋に行ったところ、レジのところに、こんなものがたくさん売られているのを発見。ははあ、駄菓子屋アイテムだなと思って、ちょっと買ってみました。この下にあるのは、「うまい棒」というもので、先日テレビで芸人衆が、どのうまい棒がうまいか、というどうでもいいような評定をしていたのを、ちらりと見たので、どんなにうまいかと買ってみました。が、ちっともうまくないのでありました。手前の「ココアシガレット」というのは、私どもが少年時代に、「シガーチョコ」という、よく似たものがあって、遠足には必ず持って行って、少年たちは、オヤジの真似をして、「スパーッ」とか口で言いながら、タバコの形のチョコを食べたものでした。それは駄菓子ではなく、ふつうの菓子屋さんにありました。で、そんなものかと思って買ってみたら、これは全然違うもので、一種のキャンディなのでした。これまたちっともうまくはないので、さっそく捨てました。味はともかく、しかし、こういう疑似タバコ的商品を、子供たちに買わせるというのは、教育上ゆゆしき問題で、こんなことからタバコへの親近感を抱く少年もいると思うと、ぜひやめてほしい、と切実に思います。タバコを撲滅するためには、一に教育、二に教育。あの愚劣な政治判断ばかりしている日本国総理大臣のように、タバコを吸うと脳味噌が腐ってしまいますから、良い子の皆さんは、決してそんなことを真似してはいけません。

2012年5月4日金曜日

いきいき源氏講座

五月になった。その一日に、雑誌『いきいき』の主催する連続講演会の第七回が催された。この講演会は、もっぱら源氏物語についての卑見を披瀝するもので、今回は、「胡蝶」の巻に見る、源氏物語のドラマ構築の手腕の素晴らしさについて、実際の原文を詳細に読みながら考えてみた。
「胡蝶」の巻は、「初音」に続くいわばワンセットのような巻なのだが、それほど注目を集める巻ではない。
しかしながら、初音・胡蝶と、源氏の絶頂期における大邸宅六条院のありさまを美しく絢爛と描きだしながら、その背後に進行していく源氏と玉蔓の葛藤という、なかなか深いところに筆を及ぼした傑作だと私は思う。そういうのっぴきならない深いテーマを、緩急自在な筆致で、ぐいぐいと読者を引っ張っていく式部の天才と手腕には、ほんとうに頭が下る。その見事な筆致を、跡付けてみなさんとともに味わってみたというわけである。
この講座は、毎回受講者はほとんどリピーターばかりで、しかも全員が女性、男は一人も聞きに来ない。どうしても男は古典文学などには興味がない傾向があるのである。とはいえ、受講者はとても熱心で、毎回たのしい一時である。

2012年4月28日土曜日

三田の五月


今日は、慶應の三田評論の名物鼎談「三人閑談」を、新倉俊一(にいくら・としかず)明治学院大学名誉教授、巽孝之(たつみ・たかゆき)慶應義塾大学教授のお二方とともにやってきた。新倉さんは、西脇順三郎の研究で知られた英米文学者、とくに英詩のご専門、巽さんは、アメリカ文学がご専門だが、明治時代の横浜正金銀行ロンドン支店長巽孝之丞(たつみ・こうのじょう)を祖父にもつという名門の出である。当時の慶應から行った留学生は、みなこの巽孝之丞邸でお世話になったので、非常に教養あるパトロンという格の紳士であった。今回のテーマは、ロンドンオリンピックに因み、「留学生の見たロンドン」ということで、漱石、小泉信三、西脇順三郎の三人を中心に、その周辺の水上滝太郎、郡虎彦、野口米次郎など、慶應ゆかりの文化人たちに及ぶ、ヴィクトリア末期からエドワード時代にかけての、ロンドンの空気なども含め、談論風発という感じで話しあった。もっとも、私は英文学のことはよくわからないので、内容のある話はもっぱら、新倉・巽両氏が語り合い、私はただ相づちを打ちながら、漱石のこと、信三のことなど、わずかの知見を語ったに過ぎない。
それはともかく、ひさしぶりに三田キャンパスに足を踏み入れてみると、またずいぶんと様子が変わっていた。三田の表玄関にあたる南校舎が全面的に建て替えとなり、すっかり面目を一新、いかにも快適な感じの校舎になっていた。
しかし、私どもが学生時代に授業を受けた第一校舎という古い校舎も健在で、それが下の写真である。昭和初期に建てられたこの校舎は、いまや堂々たる風格を醸し出して、中に入ると、なつかしい「学校」の匂いがした。ああ、学生時代にここで、池田弥三郎先生の、森武之助先生の、講義を聞いたよなあと、涙ぐましい思いがした。右手階段奥にチラリと電話ボックスが見えているが、現在はすでに公衆電話は存在していない。これも時代である。
上の写真は、キャンパス中央に聳える、通称「大銀杏」で、この銀杏の葉がすっかり散り尽してしまわないうちに講義ノートを調達できないと、年明けの試験はおぼつかない、すなわち落第の危険があるという、そういう指標になっている名物の大樹である。
校舎は建て替わっていても、そこを往来している学生たちの雰囲気は、私どもの時代とほとんど変らず、ただ女子学生のスタイルが良くなったことだけは、目を瞠る思いがした。呵呵。ああ、懐かしい学生時代!

2012年4月6日金曜日

馬籠の夕

 昨日、名古屋に新しく開校した名進研小学校の校歌を作詩したご縁で、その開校式に招かれて祝辞など述べてきた。
 式典などが終って、帰途はまた中央高速を走って帰ってきたのだが、どうも途中の恵那山トンネルが私は苦手である。あの非常に長いトンネルを通過中、もしここで大地震が起きたら落盤などが発生しはしないかと、まったく気が気でない。 
 そこで、昨日は、中津川で降りて、あとは旧中山道の山道をとことこと通って飯田まで迂回した。高速なら15分もあれば着くところが、1時間半ほどの山岳ドライブ、しかも途中の峠道ではさんさんと雪が降っていた。
 このルートだと、途中馬籠宿を通る。ついでだから見物してみようと立寄ったが、平日の夕方五時半ころのこととて、すべての店も施設も閉店。完全に人っ子一人いなかった。そのお蔭で、寂寥美溢れる夕景を撮影できたのはなによりであった。ちょっと川瀬巴水の木版画を意識した特殊の撮影を試みたら、よい効果が出た。この行灯の光が仄めいているところ、巴水の木版画でもあり、田中冬二の詩の世界にも通じている。この時間に見参したのは、なによりであった。

2012年3月31日土曜日

妹死す

 昨日の夕方、私の妹が死んだ。まだ五十八歳だった。
 かねて肺ガンで闘病中であったが、入院したと知らせを受けて、気軽なつもりで見舞いに行ったところ、妹はもういまわの際という感じになっていた。私が、大きな声で名前を呼ぶと、もう答えることもなにもできない状態だったが、一瞬、なにか言いたそうに口を動かしたように見えた。そして目尻から一滴の泪がスーッと流れて、まもなく息をしなくなった。私が病室に着いて僅か三分ほど後のことであった。もしかすると、妹は、私の到着を待っていてくれたのかもしれない。あの、なにか言いたそうにしたのは、
 「じゃ、さよなら、ありがとね」
 とでも言いたかったのか・・・。
 折しも私は『謹訳源氏物語』の第八巻を脱稿したところであった。
 妹は「さきく」という珍しい名前で、とても変った女の子であった。ずっと国立音大で育ってピアノをよくし、聴音や採譜などの名人でもあったし、リトミックなどもとてもうまかった。けれども、音楽の道は途中で廃し、ジャズのベース奏者米木康志君と結婚して全然違う道を歩いた。ちょうど去年の大震災の翌々日に脳腫瘍が見つかって緊急手術をしたが、その時余命半年と言われながら、一年よく闘った。その間、ただの一度も泣きもせず、愚痴もこぼさず、ただ黙々と闘病して、最後の最後まで自立して生活しながら、為すべき事はすべて為し終え、そして静かに世を去った。この1年間、孜々として看病介護にあたった夫の康志君の志も見事であった。妹はおそらく、すべてに感謝して世を去ったと思う。写真の真中に写っているのが妹の三歳くらいの時の写真で、左に私、右に兄、後ろに母方の祖母と母が写っている。これは、父母、母方の祖父母の眠る烏山常栄寺というお寺で撮影されたもので、妹もこのお寺に眠ることになっている。
  今一度花見て逝きねやよ吾妹  宇虚人

2012年3月25日日曜日

ブル小屋コンサート

 きょうは、久しぶりに舞台に立って、『あんこまパン』を熱唱してきた。
 今回は、日本の声楽界の大御所畑中良輔先生が主宰される、おたのしみコンサート『ブル小屋ごちゃまぜコンサート』という会で、朗読あり、ピアノ演奏あり、独唱あり、オペラ風あり、いろいろな趣向を、それこそごちゃまぜにした盛りだくさんのコンサートであった。
 会場は、表参道のカワイ楽器の二階、パウゼというホールで、じつに歌いやすい気持ちよい会場だった。が、しかし、聴衆にも声楽家とか声楽愛好家とか、ちょっと玄人の割合の多い会でもあって、いささか緊張したけれど、楽しく演奏してきた。というのは、私は例によってオックスフォードのガウンを着して、大威張りで歌い、その背後には、芸大名誉教授の平野忠彦先生をはじめとする、錚々たる音楽家諸先生を「パティシエ」として従えて、私は歌い、パティシエたちは、あんこまパンを実際に作ってみせるという趣向で、じつにどうも面白かった。
 余勢をかって、会場へ聴きに見えていた、テノールの勝又晃君を招き上げて、十八番の『アロハオエ』のデュエットをアンコール風に演奏。これもたのしかった。
 準備や、体調維持はとても大変だけれど、声楽演奏は、終ったあとのこの達成感がたまらない快感である。きょうもほんとに楽しかった。写真は、その畑中良輔先生と伴奏の五味こずえ君と共に。

2012年3月7日水曜日

いよいよ初演

 今日、六日。立教大学タッカーホールにおいて、いよいよ『聖パウロの回心』が初演された。掲出の写真は、その本番の前日、すなわち昨日五日に行われた「申合わせ」というものの一場面である。能は、オペラなどとは違って、そう何度も通し稽古をするわけではない。通常は、「申し合わせ」といって、一般的にいうところの「ゲネプロ」に当る通し稽古を一回やるだけで本番をむかえる。ただ、今回は新作なので、その前にも一度通し稽古をした。
 さて、実際の初演は、非常に濃密な舞台となり、聖書の聖パウロの回心という劇的なエピソードを美しく能として空間化し得ていたと思う。立教の先生がたも大変に喜んでくださった。
 台本作者としては、お家元が、なにかと私の意見も採用して演技の工夫を重ねてくださったことに、ただただ感謝するばかりである。

2012年3月1日木曜日

大雪

 昨日、二月二十九日は、未明から雪が降り出して、朝目が覚めると、辺り一面みっしりと雪景色であった。
 考えてみると、これ「2.29」で、三日早ければ、あの歴史上の大事件二二六事件の日と同じであったな、と妙なことに感心した。
 こうやって写真に撮ってみると、なんだか二二六事件の朝、みたいな感じすらする。きっとこういう大雪の景色のなかを、蹶起将校らは軍用車で雪を蹴立てて師団司令部を出発したのであろう。
 しかし、二二九の大雪は、平和無事で、こののんべんだらりとした政治の体たらくに蹶起する軍隊もなく、ただ静かに暮れていった。
 私は、一日書斎に篭城して、ひたすら源氏の仕上げに腐心していたが、どうも巻爪が痛むので、近所の外科に行って、生爪を切除して貰ったのは、はなはだ痛くて閉口であった。ただ、こんな雪の日には、お年寄りは家から出ないとみえて、医者は閑古鳥が鳴き、外来患者は私一人で、なじみのK先生は、あっというまに、麻酔もなにもなく、よく切れる外科用鋏で巻いた爪をズカズカと切ってくれた。まずちょっとした拷問という感じではあったが・・・。呵呵。

2012年2月17日金曜日

聖パウロの回心


 来たる三月六日、立教大学タッカーホールを会場として、新作能『聖パウロの回心』が初演される。これは、観世流ご宗家観世清和師の企画で、私が台本を書き、清和師の付曲・演出・シテで創作した作品である。ただし、今回は立教小学校の在学生と父兄が対象の非公開公演で、ゆくゆくは能楽堂での公開再演が期待される。
 先に、朝日新聞にも清和師へのインタビューが大きく取り上げられたが、中世末キリシタン能というものがしきりと行われた歴史がある。しかし、キリシタンの禁教令によって完全に抹殺され、今日ではまったく実体がわからなくなってしまった。だが、聖書からの作劇であることは当然であったろう。今回は、そういう歴史を踏まえて、聖書のなかでも劇的なエピソードである、サウロ(パウロ)の回心を、能に作劇したもの。私の台本は、聖書に忠実に基づきながらも、中世の能の言語、すなわち文語によって書いた。やはり能には能の言葉がよろしいので、口語能というスタイルを私は取らない。上の写真は、14日に行われた第一回の打合せと型などの確認のスナップで、これから立ち稽古などを経て、本番に至る。14日には細かな進行や型などを清和師とともに決定。写真は、舞台の上でおおまかな進行を試みて話しあっているところである。舞台上、右から、坂口貴信、岡久広、上田公威の各師。松濤の観世能楽堂において。

2012年2月3日金曜日

歌を歌ってきた!

 今日は、NHKラジオ第一放送で、毎月第一木曜日にレギュラーで生出演している『つながるラジオ』「リンボウ先生の、これが私の暮らし方」の放送日であった。今回は、「まじめに遊べば人生愉し」というテーマで、ともかく「歌」を中心とした趣味の話。もともとこの企画は、リスナーから、どうしても私の歌を聴かせてほしいというリクエストがあったとかで、NHKのほうから、何度か頼まれた揚げ句に、柿沼キャスター(早稲田大学グリークラブ出身)とのデュエットなら歌ってもいいということで妥協したという経緯であった。
 しかし、いざ蓋を開けてみれば、C505なんて巨大なスタジオに、スタインウエイのグランドピアノまで用意して、録音技師やら、何人ものADやらがついて、ととんでもないおおごとになってしまって、ややや、と思ったことであった。
 けれども、やることになってしまったのだから、しかたない。覚悟を決めて、一回だけ柿沼さんと合わせ練習をして、あとはぶっつけ本番。曲目は滝廉太郎の『花』(これは石山さんにも参加してもらって三人で歌った。私は高音部を担当)と、私の訳詩による『アロハ・オエ』(こちらは、柿沼さんとのデュエット、こんどは低音部を担当した)やはりこれがそのまま生で全国に放送されると思うと、舞台とはちがった緊張感があった。ま、生まれて初めて放送で歌う、緊張するのもしかたない。しかし、まあまあ、なんとか歌い終えて、ホッとしているところである。ピアノ伴奏は、いつも伴奏してくれる、名手五味こずえ君。ああ、疲れた! 放送は舞台より疲れるかもしれない。

2012年1月26日木曜日

夕星俳座

 昨年三月に立ち上げた我が句会『夕星俳座』も、はや年を越した。新年の句会は、ちょっと気張って、入谷の普茶料理店「梵」に会場をお借りして、ご馳走を食べるのと両方のお楽しみとした。わが句会としてはあくまでも例外的開催である。
 みよ、この同人たちの、真剣そのものの表情を。これは只今配られた句一覧を睨みながら、各人それぞれに選句をしているところである。
 この後、各人五句ずつを選んで、そのうち一句を特選とし、平選句は一点、特選は二点として、点数を集計し、点数の多い句から順に、みなで合評をしていく。合評ったって、目を三角にしてやり合うのではなくて、和気靄々、微笑哄笑苦笑憫笑のうちに、それぞれの句の良さ、また不足なところなどを忌憚なく語り合う。こういうことによって、自然自然に、俳句というものの面白さや難しさが分かってきて、いつしか上達していくものである。世上一般の句会と違って、師匠だの弟子だのという関係性はないので、みんな平民、みんな平等、そこがまた愉しい。

2012年1月18日水曜日

笑福食堂

 わがHPの表紙の写真は折々入れ替えているのだが、今回新しくした写真は、なかなか好評で、これはどこの食堂かという御質問が多い。
 そこで、これを種明かしすると、この写真の「笑福食堂」という目出度い屋号の中華料理店なのである。日豊本線の豊前松江という小さなローカル駅の真ん前にある食堂で、駅のすぐ向こうはもう海、というまことに牧歌的なたたずまいのところである。いつぞや、九州の苅田町へ講演の折に、その辺りの風景探索にぶらりでかけたついでに、ふとこの食堂に立ちよって皿うどんを食べたことがある。写真は、その折りに、セルフタイマーを用いて撮影した一枚。
 私の旅は、いつもこういう調子で、ガイドブックなどにはまず出てこないような、「地元食堂」に、出合い頭に入って食べる。おいしい店に当ることもあるし、とんでもないものに出会うこともある。しかし、そういう不確定な、未知との遭遇が、もっとも楽しいのだ。
 ちなみに、ここの皿うどんは、なかなか結構なお味でありました。

2012年1月17日火曜日

いきいき

 1月16日は、神楽坂の日本出版クラブというところを会場として、雑誌「いきいき」主催の源氏物語講演シリーズの第六回をやった。今回は、「夫婦喧嘩」がテーマで、源氏と紫上の、腹の探り合いのようなやりとりと、夕霧と雲井の雁の、もっと陽性で憎めない喧嘩沙汰と、その二つを比べながら、源氏物語が、いかに細かなところまで、人心の綾を穿って書かれているかというところを、すこし詳しく読んでみたのである。そうすると、時代や身分は違っても、やはり男と女の心のすれ違いのようなことは千古不易だなあと、しんみりもし、おかしくもあり、また人間はかわいいものだなあと痛感するのであった。
 今回も、いつも若々しくお元気な清川妙先生と、園芸家・エッセイ作家の桐原春子さんと、お二方が特別聴講にお見えくださった。
 詳しく読めば読むほどに、源氏物語の、精妙巧緻な筆の運びに、いつも感心させられる。とかく、ただ読んでいるだけだと、ついついスーッと通り過ぎてしまいがちなものだが、こうして講釈をするために詳しく勉強をすると、なんとなく理解したつもりで通り過ぎていたところにも、こまかな文章の綾が仕掛けられてあったことに、ふと気付いたりすることが多くて、つくづく大変な作品である。
 朗読したり、講義したりの間に気付いた謹訳の誤りや、不十分なところについては、増刷のたびに修正補筆しているのだが、今後とも、虚心坦懐にこの大文学に向かい合って、日々少しでも原作そのものに肉迫していくように心がけたいと、そう思うことしきりである。

2012年1月9日月曜日

白州の家


 山梨県北杜市白州の山中に、ささやかな山荘を持っている。大昔、子供時代には、父の作った信濃大町の山荘で、いつも夏を過したので、それがすっかり習慣となって、東京で酷暑の夏を過すことは、若い時分にはほとんどなかった。まだ子供が小さかった頃には、ひと夏を過すための厖大な書物などを車に積んで、大町へ行き、自然の冷気のなかで心豊かな夏を過したものであった。かの『イギリスはおいしい』も、その信濃大町の山荘で勉強しながら、片手間で書いたのであった。
 それから、やがて蓼科高原に第二の山荘を建てて、三十代のころの夏は蓼科高原の家で避暑をして暮したのであったけれど、ここは標高が高過ぎて、どうも頭がボンヤリするのが難点であった。そこで、四十を過ぎて、いよいよ仕事が忙しくなると、もっと低くて近いところに山荘を設けたいと思って、この白州の山荘を造った。自分一人の力で建てた初めての山荘であった。ここはほんとうに気持ちのよい里山の雑木林のなかにあって、私のもっとも好きな場所なのだが、いかんせん忙しくなりすぎて、今はほとんどゆくことができない。子供たちは、みなアメリカに住んでいるので利用する人もなく、まことに勿体ないことである。そこで、しばしば「もう売ってしまおうか」と、夫婦で相談したりもするのだが、いざ行ってみると、まことに快適だし、自分として愛着があって、なかなか売ることができない。それでも、どうしても欲しいという人が現れたら、売っても良いな、くらいには思っているのである。ここは標高が六百メートルくらいだが、林の中なので夏は涼しいのである。真冬は雪も降るので閉じてしまうけれど、春秋などは、新緑に紅葉の景色も素晴らしく、寒ければ薪ストーブを焚いて、火を眺めながら炉辺談話に過す休日など、もっとも心豊かな時を味わうことができる。

2012年1月7日土曜日

新春着物談義

 1月5日の午後三時から五時まで、毎月レギュラー出演している、NHKラジオ第一放送の「つながるラジオ・リンボウ先生のこれが私の暮らし方」、今年最初の出演は、新春特別企画として、檀ふみさんにゲスト出演を願っての着物談義であった。檀さんは、この写真ではわからないけれど、「一富士二鷹三茄子」の初夢に因んだごくごく細かな江戸小紋、淡い橡(つるばみ)色の上品な着物に、手描無線京友禅の黒地の帯、まことに粋な取り合わせ、私は、鴬色の羽二重の色紋付きに袴というちょっと仕舞でもしようかという出で立ちで出演した。といってもラジオだからその出で立ちは見えないのだけれど、同番組のHPに写真が掲載されたので、リスナーにも視覚的な情報が届く。とりどりに楽しいお話しを伺っただけでなく、例の『謹訳源氏』の生朗読では、檀さんに朧月夜の役で出演していただいたのは、じつに楽しかった。檀さんとお話ししているといつも思うことだが、人間、育ちの良さというものはほんとうに争われないもの、上品でまことに気持ちのいいお人柄には心底敬服。