2011年1月27日木曜日
熱海起雲閣の壮麗
2011年1月20日木曜日
2011年1月18日火曜日
受動喫煙を撲滅せよ
千葉のタバコ問題を考える会、という団体に頼まれて、受動喫煙防止のための基調演説をしたのである。この写真は、その演説が終わったあと、同会の役員の方々と撮った記念写真。今日、受動喫煙の問題は、世界中できわめて先鋭的な取り組みが進み、今や西欧先進国では、公共の空間で喫煙できるところはほとんど存在しなくなっていると言っていいのだが、世界の先進国のなかで、もっともこの問題の取り組みが遅れているのがわが日本である。おそらくそれは、JTという国策会社の株を半分以上も財務省が持っていて、この依存性の強い毒物を国家が国民に販売し、その依存性の奴隷たらしめて金を稼ぐという、清朝末期のアヘンよりも悪い状態にあることが、根本の原因であろうかと私は考えている。この状況を打破するには、要するに喫煙しない人たちが、大いに声を上げ、行動をして、喫煙に対する「不寛容」を表明することが大切である。分煙などはごまかしであって、何の解決にもならぬ。子供の立ち入るファミレスでさえ完全禁煙でないなどということがあっていいものかどうか、良識ある大人はどうかよく考えて欲しい。分煙などしても、そこで働いている未成年者・非喫煙の従業員は深刻な受動喫煙に曝されるのである。雇用者も、そこを考えないと、大変なことになる。
サイン本販売のお知らせ
2011年1月13日木曜日
晩白柚のマーマレード
2011年1月12日水曜日
2011年1月11日火曜日
成人の日特集
2011年1月8日土曜日
サツマイモ讚
2011年1月6日木曜日
身分証明書
これは、私の父、雄二郎がフランスの政府留学生としてパリに滞在中に使用していた身分証明書である。1959年の発行だから、当時父は43歳であった。先日古い資料を整理していたところ、この証明書を発見、ただちに写真を撮っておいた。この写真でみても、我が父親ながら、じつにハンサムで、ちょっと役人にしておくのはもったいないくらいだったと思うほどだが、いかんせん背が低いのが欠点であった。これに対して、私の母は、当時としては大変に大柄な人で、両親はいわゆる「蚤の夫婦」であったけれど、その母親の長身遺伝子は、父の短躯遺伝子によって簡単に凌駕されてしまったとみえて、私ども子供たちは誰一人背が高くならなかった。まことに遺憾なる事実である。しかし、父はこの時フランス政府の経済計画を学んで帰り、これが後の高度成長政策を背後でささえる力となったのである。1959年といえば、まだまだ日本は貧しい時代であったから、父のフランス生活はまことに貧寒なものであったという。その後、父は経済企画庁の経済研究所長から東京工大の教授に転じ、そのあとトヨタ財団を皮切りにフィランソロピーの世界に進んだ。後にフランス政府から、レジオンドヌール・シュヴァリエ勲章を受け、日本の知仏派の代表的知識人の一人となった。今その父は94歳で、日々元気に近所を散歩して歩いている。
2011年1月4日火曜日
だしとコンニャク
2011年1月2日日曜日
ボストン夫人の面影
まことに時の経つことの速やかなる、あたかも白駒(はくく)の隙(げき)を過(よぎ)るが如し。この写真は、1987年の1月17日に撮影されたものだから、もう24年も前のことになる。四半世紀近い年月が、またたく間に流れたのだ。この写真の老婦人こそ、私のイギリス生活をもっとも実り豊かなものにしてくださった大恩人であるルーシー・マリア・ボストン夫人その人である。このとき94歳くらいだったろうか。そのグローブのようにがっしりと大きな手で、私どもの息子と娘の手を握ってニコニコしている。彼女の、優しい、そして品格ある人柄が、この写真にも如実に写っているように思われる。この日もルーシーは、子供たちを案内して、この館のあちこちを回り、三階にある「トーリーの木馬」には、子供たちを乗せて遊ばせてもくれた。このあと、私たちはルーシーとともに簡単な夕食のテーブルを囲み、懐かしい話をいろいろとして、夜、雪のなかを帰った。そしてこれがじつはルーシーとの最後の別れとなったのだった。書きたいことはいっぱいある。記憶があやふやにならないうちに、ぜひしっかりとヘミングフォード・グレイ村の、ボストン館でのことを、ちゃんとした本にでも書いておきたいと思うのだが、はたしてそんなことに興味をもつ出版社があるかどうか・・・。
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