2018年1月21日日曜日

栗橋の静御前


 きょう、1月21日は、埼玉県久喜市の栗橋宿まで、講演に出かけた。
 栗橋で、「文学的存在としての静御前」という話をしてきたのである。
 源義経の愛妾であった白拍子静御前の名前はつとに有名であるが、その実、ほんとうのところどんな人であったのかはよく分かっていない。
 いちばん史実に近いのは『吾妻鑑』の記述かと思われるが、それとて、鎌倉幕府の意向で編纂された史書だから、いわば頼朝サイドに都合よく書かれているという偏向があるだろうことは容易に想像される。つぎに詳しいのは『義経記』の記述だが、もとよりこの書は、かなり恣意的に脚色された「物語」であって、史的にはとうてい信頼するに足りない。この『吾妻鑑』と『義経記』を比較しながら、さらにそこに、『平家物語』の記述や『徒然草』の伝えるところなどを勘案しつつ、文学史上の静御前について思うところを話してきた。同時に、各地に残る静御前伝説についても、諸書を引きつつ概説したところである。どうして栗橋で静御前なのかというと、静は淡路、奈良、信濃、前橋、などあちこちにその墓と称するものがあって、享年も24ともいい47ともいい、一定しない。そんななかで、栗橋にも静の墓と伝えるものが現存し、口碑では、一旦京都に戻った静は、義経を慕って平泉まで行こうとしたが、栗橋まで来たときに義経の自害破滅を知り、絶望してここで病没したというのである。そんなことで、町おこしの一環として、おおいに静に注目しようというので、私がその文学側からの実際をお話しすることにしたのである。
 栗橋イリスという会場はほとんど満席で、熱気あふれる聴衆を前に、いろいろ詳しくお話しをした。写真は、栗橋駅前にある静の墓所といわれるところで、ちょっと顔看板の写真を撮ってきたのだが、義経とは似ても似つかぬ顔にて、まことに恐縮の次第である。