七月最後の週末は、長野の善光寺表参道での講演会に出向いた。
善光寺境内、大本願の地下ホールに、大勢のかたがたが集まってくださって、私の話に耳を傾けられた。
今回は、『古典文学と地名と魂』というテーマで90分の話をした。
主に『古今集』巻二十の大歌所御歌にスポットを当てながら、『万葉集』や能楽、『大和物語』など、さまざまの古典作品にわたって材を採りつつ、いかに日本の地名には大切な魂が宿っているか、そしてそれを和歌などに読むことにどんな意義があるか、ということを語った。
信濃での講演なので、シナノという地名のことや、信濃の東歌などにも話を及ぼした。
さて、写真は、その講演に先立って、少し時間があったので、車を駆って、近在を見物して歩いた。その道々、旧北国街道の北側にひっそりと静まっている田子池という池に遭遇した。この池は釣りをする人には良く知られているらしいが、北岸には古墳などもいつくかあって、由緒のある古い池と見える。
岸辺には林檎の木が繁り、はやくも青い林檎がたくさん実っていた。
素晴らしい好天で、非常に暑い日であったが、この写真からも、強い紫外線のありようが見て取れるようだ。
緑が滴るようであった。
2012年7月18日水曜日
とんだ災難
人間、どこに災難が転がっているか、まったくわからぬ。
今朝、ズボンをはこうとした瞬間、なにやらポキッっという音がして、左手の薬指が鉤の手に曲ったまま伸展しなくなってしまった!
慌てて「手の外科」という看板を出している整形外科へ駆けつけて、調べてもらった結果、これは左手薬指の腱が断裂しちゃったので、ギプスで固定して約二ヶ月ほど、腱がまた再生するのを待つべし、とのこと。
このクソ忙しいのに、まったく不自由だけれど、こればかりはなんとも仕方がない。別にたいして力を加えたわけでもないのに、と思うけれど、お医者さまの言うには、なにかの拍子に、プツッと切れたりするものなのだそうだ。
ま、運が悪かったというほかないが、それでも、丁寧に対応すれば自然に再生して治るというので、ホッとした。
今朝、ズボンをはこうとした瞬間、なにやらポキッっという音がして、左手の薬指が鉤の手に曲ったまま伸展しなくなってしまった!
慌てて「手の外科」という看板を出している整形外科へ駆けつけて、調べてもらった結果、これは左手薬指の腱が断裂しちゃったので、ギプスで固定して約二ヶ月ほど、腱がまた再生するのを待つべし、とのこと。
このクソ忙しいのに、まったく不自由だけれど、こればかりはなんとも仕方がない。別にたいして力を加えたわけでもないのに、と思うけれど、お医者さまの言うには、なにかの拍子に、プツッと切れたりするものなのだそうだ。
ま、運が悪かったというほかないが、それでも、丁寧に対応すれば自然に再生して治るというので、ホッとした。
2012年7月9日月曜日
追悼・畑中良輔先生
七夕の昨日、都立青山斎場にて、日本声楽界の重鎮、畑中良輔先生の「お別れの会」が開かれた。
私も、先生晩年に知遇を得て、たいへんに良くして頂いたので、この会の発起人の末席に連なった。
先生は、すばらしいバリトン歌手として、特に戦後の日本オペラの正統的な発展に大変に大きな寄与をされたばかりでなく、新国立劇場の芸術監督としても後世に残る業績を残された。そのいっぽうで、東京芸術大学の教授としては、夥しい声楽家を育て、まさに名伯楽としての名声も天下に響いている。
そればかりか、作曲家としては『花林(まるめろ)』に代表される名歌曲を数多く作曲され、日本の歌曲に豊かなレパートリーを加えられたことは特筆すべきところであろう。
さらにさらに、わが慶應義塾大学ワグネルソサエティの合唱指揮者として、半世紀を超える長きにわたって熱血的指導をされ、戦後のワグネルは畑中先生なくしてはとうてい今日の隆盛を見ることはなかったに違いない。されば、お別れの会に於て、オールワグネルの大合唱団が、タンホイザーの大行進曲を全力歌唱して、満場を感動させた。私も恥ずかしながら、これには涙を禁じ得なかった。
私自身にとって、先生はながらく、遠く仰ぎ見るだけの存在であったけれど、いつのころからか、「リンボウさん、リンボウさん」と、親しくさせていただき、青の会、水戸芸術館クリスマスコンサート、そしてこの三月の『ブル小屋ごちゃまぜコンサート』等、先生主宰の演奏会に、何度も「バリトン歌手」として呼んでくださり、わが『あんこまパン』などの曲を客演独唱する機会を与えてくださった。この『ごちゃまぜコンサート』は、先生の生涯最後の演奏会となったのであったが、そこに私も参加させて頂いたことは、一生の記念となった。
それから間もなく、五月二十四日に、先生は忽焉として白玉楼中の人となってしまわれた。まことに悲しいできごとであった。寿、実に九旬。
先生はその最晩年に至るまで、いつも湯上がりのように清潔で血色よいお顔をしておられ、ダンディぶりは常に変らなかった。そして厳しい指導でも知られたが、その指導の底には常にまた温かい心が脈打っていて、誰からも深く敬愛されたところであった。一度でも親しく先生の謦咳に接した者は、その優しいお人柄、またお茶目なユーモアのセンスなど、先生の魅力に取り憑かれてしまうと言っても過言ではなかったろう。
一言で申すならば、先生はまさに、「品格」が人間の形をしている、とそんな存在であったろうか。
先生のご冥福を祈る。合掌。
私も、先生晩年に知遇を得て、たいへんに良くして頂いたので、この会の発起人の末席に連なった。
先生は、すばらしいバリトン歌手として、特に戦後の日本オペラの正統的な発展に大変に大きな寄与をされたばかりでなく、新国立劇場の芸術監督としても後世に残る業績を残された。そのいっぽうで、東京芸術大学の教授としては、夥しい声楽家を育て、まさに名伯楽としての名声も天下に響いている。
そればかりか、作曲家としては『花林(まるめろ)』に代表される名歌曲を数多く作曲され、日本の歌曲に豊かなレパートリーを加えられたことは特筆すべきところであろう。
さらにさらに、わが慶應義塾大学ワグネルソサエティの合唱指揮者として、半世紀を超える長きにわたって熱血的指導をされ、戦後のワグネルは畑中先生なくしてはとうてい今日の隆盛を見ることはなかったに違いない。されば、お別れの会に於て、オールワグネルの大合唱団が、タンホイザーの大行進曲を全力歌唱して、満場を感動させた。私も恥ずかしながら、これには涙を禁じ得なかった。
私自身にとって、先生はながらく、遠く仰ぎ見るだけの存在であったけれど、いつのころからか、「リンボウさん、リンボウさん」と、親しくさせていただき、青の会、水戸芸術館クリスマスコンサート、そしてこの三月の『ブル小屋ごちゃまぜコンサート』等、先生主宰の演奏会に、何度も「バリトン歌手」として呼んでくださり、わが『あんこまパン』などの曲を客演独唱する機会を与えてくださった。この『ごちゃまぜコンサート』は、先生の生涯最後の演奏会となったのであったが、そこに私も参加させて頂いたことは、一生の記念となった。
それから間もなく、五月二十四日に、先生は忽焉として白玉楼中の人となってしまわれた。まことに悲しいできごとであった。寿、実に九旬。
先生はその最晩年に至るまで、いつも湯上がりのように清潔で血色よいお顔をしておられ、ダンディぶりは常に変らなかった。そして厳しい指導でも知られたが、その指導の底には常にまた温かい心が脈打っていて、誰からも深く敬愛されたところであった。一度でも親しく先生の謦咳に接した者は、その優しいお人柄、またお茶目なユーモアのセンスなど、先生の魅力に取り憑かれてしまうと言っても過言ではなかったろう。
一言で申すならば、先生はまさに、「品格」が人間の形をしている、とそんな存在であったろうか。
先生のご冥福を祈る。合掌。
2012年7月3日火曜日
謹訳源氏第八巻刊行
ながらくお待たせいたしました。
謹訳源氏の第八巻が、やっと店頭に並びます。
第七巻から、ずいぶんと間が空いてしまって、皆様方からお問い合わせを頂戴し、また、ご心配をいただきまして、恐縮いたしております。
なにぶん、この巻は、450ページにも及ぶ厚冊で、読みでは十分、それだけに書くのも、また校正するのも一筋縄ではいかない長さでありました。
いよいよ源氏の没後、その子孫たちの物語が始まります。
いわゆる匂宮三帖という巻々は、いささか過渡的なところがありますが、橋姫以下の、宇治十帖は、また本編とは違った語り口、興趣があって、これはこれで、またなかなか読みごたえのある物語です。
なお、第九巻の刊行は、年末近くになるだろうと思いますが、これから夏休み返上で執筆にいそしむというところです。
謹訳源氏の第八巻が、やっと店頭に並びます。
第七巻から、ずいぶんと間が空いてしまって、皆様方からお問い合わせを頂戴し、また、ご心配をいただきまして、恐縮いたしております。
なにぶん、この巻は、450ページにも及ぶ厚冊で、読みでは十分、それだけに書くのも、また校正するのも一筋縄ではいかない長さでありました。
いよいよ源氏の没後、その子孫たちの物語が始まります。
いわゆる匂宮三帖という巻々は、いささか過渡的なところがありますが、橋姫以下の、宇治十帖は、また本編とは違った語り口、興趣があって、これはこれで、またなかなか読みごたえのある物語です。
なお、第九巻の刊行は、年末近くになるだろうと思いますが、これから夏休み返上で執筆にいそしむというところです。
2012年6月15日金曜日
駄菓子
まことに長らく更新を怠っておりまして、大変に申し訳ありません。このところずっと、『謹訳源氏物語』第八巻の校正等に追われて、捩り鉢巻き状態でした。
さて、ここもとお目にかけますのは、駄菓子であります。
昔は、駄菓子屋というものが、学校の近くなどにあって、級友たちはしばしば立寄るようでしたが、私どもはお金というものを持たずに暮らしていたこと(それは私どもの時代には当たり前であった)、それから駄菓子屋に立寄って買い食いすることを禁じられていたこと、この二つの理由から、子供時代に駄菓子屋というものに入ったことはありませんでした。それゆえ、駄菓子の味というものは、まったく記憶のなかになく、何の懐かしさも感じないのですが、つい最近、近所の中古本屋に行ったところ、レジのところに、こんなものがたくさん売られているのを発見。ははあ、駄菓子屋アイテムだなと思って、ちょっと買ってみました。この下にあるのは、「うまい棒」というもので、先日テレビで芸人衆が、どのうまい棒がうまいか、というどうでもいいような評定をしていたのを、ちらりと見たので、どんなにうまいかと買ってみました。が、ちっともうまくないのでありました。手前の「ココアシガレット」というのは、私どもが少年時代に、「シガーチョコ」という、よく似たものがあって、遠足には必ず持って行って、少年たちは、オヤジの真似をして、「スパーッ」とか口で言いながら、タバコの形のチョコを食べたものでした。それは駄菓子ではなく、ふつうの菓子屋さんにありました。で、そんなものかと思って買ってみたら、これは全然違うもので、一種のキャンディなのでした。これまたちっともうまくはないので、さっそく捨てました。味はともかく、しかし、こういう疑似タバコ的商品を、子供たちに買わせるというのは、教育上ゆゆしき問題で、こんなことからタバコへの親近感を抱く少年もいると思うと、ぜひやめてほしい、と切実に思います。タバコを撲滅するためには、一に教育、二に教育。あの愚劣な政治判断ばかりしている日本国総理大臣のように、タバコを吸うと脳味噌が腐ってしまいますから、良い子の皆さんは、決してそんなことを真似してはいけません。
2012年5月4日金曜日
いきいき源氏講座
五月になった。その一日に、雑誌『いきいき』の主催する連続講演会の第七回が催された。この講演会は、もっぱら源氏物語についての卑見を披瀝するもので、今回は、「胡蝶」の巻に見る、源氏物語のドラマ構築の手腕の素晴らしさについて、実際の原文を詳細に読みながら考えてみた。
「胡蝶」の巻は、「初音」に続くいわばワンセットのような巻なのだが、それほど注目を集める巻ではない。
しかしながら、初音・胡蝶と、源氏の絶頂期における大邸宅六条院のありさまを美しく絢爛と描きだしながら、その背後に進行していく源氏と玉蔓の葛藤という、なかなか深いところに筆を及ぼした傑作だと私は思う。そういうのっぴきならない深いテーマを、緩急自在な筆致で、ぐいぐいと読者を引っ張っていく式部の天才と手腕には、ほんとうに頭が下る。その見事な筆致を、跡付けてみなさんとともに味わってみたというわけである。
この講座は、毎回受講者はほとんどリピーターばかりで、しかも全員が女性、男は一人も聞きに来ない。どうしても男は古典文学などには興味がない傾向があるのである。とはいえ、受講者はとても熱心で、毎回たのしい一時である。
「胡蝶」の巻は、「初音」に続くいわばワンセットのような巻なのだが、それほど注目を集める巻ではない。
しかしながら、初音・胡蝶と、源氏の絶頂期における大邸宅六条院のありさまを美しく絢爛と描きだしながら、その背後に進行していく源氏と玉蔓の葛藤という、なかなか深いところに筆を及ぼした傑作だと私は思う。そういうのっぴきならない深いテーマを、緩急自在な筆致で、ぐいぐいと読者を引っ張っていく式部の天才と手腕には、ほんとうに頭が下る。その見事な筆致を、跡付けてみなさんとともに味わってみたというわけである。
この講座は、毎回受講者はほとんどリピーターばかりで、しかも全員が女性、男は一人も聞きに来ない。どうしても男は古典文学などには興味がない傾向があるのである。とはいえ、受講者はとても熱心で、毎回たのしい一時である。
2012年4月28日土曜日
三田の五月
今日は、慶應の三田評論の名物鼎談「三人閑談」を、新倉俊一(にいくら・としかず)明治学院大学名誉教授、巽孝之(たつみ・たかゆき)慶應義塾大学教授のお二方とともにやってきた。新倉さんは、西脇順三郎の研究で知られた英米文学者、とくに英詩のご専門、巽さんは、アメリカ文学がご専門だが、明治時代の横浜正金銀行ロンドン支店長巽孝之丞(たつみ・こうのじょう)を祖父にもつという名門の出である。当時の慶應から行った留学生は、みなこの巽孝之丞邸でお世話になったので、非常に教養あるパトロンという格の紳士であった。今回のテーマは、ロンドンオリンピックに因み、「留学生の見たロンドン」ということで、漱石、小泉信三、西脇順三郎の三人を中心に、その周辺の水上滝太郎、郡虎彦、野口米次郎など、慶應ゆかりの文化人たちに及ぶ、ヴィクトリア末期からエドワード時代にかけての、ロンドンの空気なども含め、談論風発という感じで話しあった。もっとも、私は英文学のことはよくわからないので、内容のある話はもっぱら、新倉・巽両氏が語り合い、私はただ相づちを打ちながら、漱石のこと、信三のことなど、わずかの知見を語ったに過ぎない。
それはともかく、ひさしぶりに三田キャンパスに足を踏み入れてみると、またずいぶんと様子が変わっていた。三田の表玄関にあたる南校舎が全面的に建て替えとなり、すっかり面目を一新、いかにも快適な感じの校舎になっていた。
しかし、私どもが学生時代に授業を受けた第一校舎という古い校舎も健在で、それが下の写真である。昭和初期に建てられたこの校舎は、いまや堂々たる風格を醸し出して、中に入ると、なつかしい「学校」の匂いがした。ああ、学生時代にここで、池田弥三郎先生の、森武之助先生の、講義を聞いたよなあと、涙ぐましい思いがした。右手階段奥にチラリと電話ボックスが見えているが、現在はすでに公衆電話は存在していない。これも時代である。
上の写真は、キャンパス中央に聳える、通称「大銀杏」で、この銀杏の葉がすっかり散り尽してしまわないうちに講義ノートを調達できないと、年明けの試験はおぼつかない、すなわち落第の危険があるという、そういう指標になっている名物の大樹である。
校舎は建て替わっていても、そこを往来している学生たちの雰囲気は、私どもの時代とほとんど変らず、ただ女子学生のスタイルが良くなったことだけは、目を瞠る思いがした。呵呵。ああ、懐かしい学生時代!
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