2014年11月22日土曜日

鎮魂の賦

ことしは、不思議に私の作詩した合唱作品の当たり年になった。
じつは本日、11月22日の午後五時から、慶応義塾大学ワグネルソサエティ男声合唱団の定期演奏会があるのだが、そのなかで、上田真樹作曲『鎮魂の賦』(朝日作曲賞受賞作品)の男声合唱版が初演される。
そこで、先日、そのワグネルの練習に立ち会って、いろいろ作詩者からのアドバイスやら、詩についての解説やらをしてきた。
いままで、何度かこの曲の演奏を聞いてきたが、この度のワグネル初演の男声合唱版こそは、じつはこの曲のもっとも適切な演奏形式ではないかと思わせてくれるような、素晴らしい演奏(まだ練習途上であったにもかかわらず)であった。
さすがに畑中良輔先生が生涯指導を続けてこられた、合唱界の一方の雄であるワグネルである。今回この鎮魂曲を取り上げるのは、ほかならず畑中先生に献呈するという意味合いも込めたよしである。
じっさい、練習に立ち会ってみると、底響きのする、そしてまた倍音の豊かに聞こえる厚みある演奏、学生諸君の気合の入った練習ぶりに、私は聴いていて落涙を禁じ得ないところであった。
本日の夕刻五時開演(人見記念講堂)の本番演奏をすこぶる楽しみにしているところである。
と同時に、面白いことに、ことしは筑波大学合唱団が創立40年記念定期演奏会を開くについて、現役合唱団は、同じく上田真樹作曲『夢の意味』を、またOBOG合唱団は、私の詩に、なかにしあかねさんが作曲した『ひとつの時代』という委嘱新作を初演するというので、これは、先日その練習に立ち会って、さまざまのアドバイスをしてきたところである。これまた、なかにしさんの作曲素晴らしく、短いながら(三曲構成)愛すべき作品となっていて、12月7日浅草公会堂の本番が楽しみである。近く、その現役合唱団の『夢の意味』についても練習立ち会いの予定で、はるばる筑波まで出向くことになっている。
と思っていたら、次にまた青山学院のグリーンハーモニー合唱団(混声)が、『鎮魂の賦』混声版を、12月29日午後三時開演の第六十回記念定期演奏会(人見記念講堂)で演奏するという連絡が指揮者から入り、指導を受けたいという希望に応えて、急遽その練習に立ち会うことになった。今日はその青山学院での練習立ち会いのあと、ワグネルを聴きに行く予定である。忙しいながら、楽しい一日である。
写真は、ワグネルの練習のあと、指揮者、伴奏者、作曲者、学生代表、OB会長らと会食の折の記念撮影。私の左側の女性が作曲の上田真樹君。右隣が指揮者の佐藤正浩氏、後ろに立っているワイシャツ姿がピアノ伴奏の前田勝則氏。

2014年11月3日月曜日

MIYABICA

去る10月19日、代々木の修養会ビルなるSYDホールにおいて、高牧康と東京ベルズの歌のコンサートが開かれた。
今回のコンサートは、このたび、ディスク・クラシカから新発売になった、彼らのCD『MIYABICA(雅歌)』のリリースを記念してのものであったから、CDに収められたすべての曲目を総ざらえに歌うというプログラムであった。
このMIYABICAというのは、私が新たに訳出した新訳日本語詩による外国曲(ちょっとエロス的な味わいがある歌ども)というコンセプトの謂いである。古いところでは、ダウランドやウィルビーの、あるいはジャヌカンやラッススなどの、ポリフォニックな重唱曲、新しいところでは、サン=サーンスやエルガーの合唱曲、さらには、高牧君自作の新曲など、まことに広いレパートリを包括するものである。もともと彼らは原語の演奏でさまざまの賞などを受けている実力派の重唱団であるが、このCDを制作するにあたって、ぜひ日本語に訳したヴァージョンで歌いたいという高牧君の熱い思いにこたえて、私は、あらゆる手練手管を尽くして、原詩に忠実でありながら、かつ聞き取りやすく、かつエロス的な艶があるようにと心を込めて訳詩を作った。
もともとアカペラの重唱団としては、日本有数の実力を認められているベルズの諸君のことゆえ、コンサートでは、この新しい日本語詩を縦横に歌いこなして、それはそれは見事な演奏であった。
このCDについては、下記のディスククラシカのサイトでご覧いただきたい。

 http://www.disc-classica.jp/lineup/takamaki_bells.html

ところで、その記念演奏会に、私はプロデューサの仙波知司さんと、ド突き漫才よろしく掛け合いの「解説」などすることになっていたのだが、なんと前々日くらいになって、高牧君から、どうしてもアンコールで一曲歌ってくれないかという要望が来た。それは困ると辞退したのだが、そこをなんとか、という重ねての要望もだしがたく、ついにこれを諾して、当日は、ダウランドの「Fine knacks for ladies」と、ヘンリー八世の「Pastime with good company」の二曲を彼らと一緒に英語で歌わせてもらうことにした。前者は、一番を私が独唱し、三番はアンサンブルで私はバスパートを歌う、ということで。また後者はかれらのアンサンブルとともに、私は旋律パートを歌うということにした。
写真は、そのリハーサル風景である。あまりに急なことで練習もできぬままの本番、私にしては珍しく緊張してしまった。ま、しかしそれもご愛嬌というものであったろうか。
どうかみなさま、このCD「MIYABICA」をよろしくお願いいたします。
(この日本語詩版の楽譜など出るといいなあ!)


2014年10月18日土曜日

薩摩の旅

ひさしぶりに薩摩に行ってきた。鹿児島市の城山観光ホテルが主催する維新回顧のイベントの一環で、『薩摩スチューデント』(1865年に薩摩藩がイギリスに送り込んだ15人の俊才留学生)のことを話してきたのである(くわしくは拙著歴史小説『薩摩スチューデント、西へ』光文社文庫をご一読ください)。所与の時間は60分という予定であったけれど、なにしろ15人もいる留学生のことを話すには足りない時間で、すこしオーバーして極力詳しく話した。
講演の前に数時間の閑暇があったので、ひとつは地元鹿児島テレビのインタビューを収録したのと、南日本新聞の取材で、磯の異人館に行って写真撮影、そしてそのあと、ご当地名物「ぢゃんぼ餅」をご馳走になった。この「ぢゃんぼ」というのは「両棒」と書いて「リャンボウ」と読んだのの転訛であろうと思われる。ご覧のように、一つの餅に二本の棒(串)が挿してある。それでこう呼ぶので、別にJamboではなく、むしろ小さなミタラシ餅と言うべきものであった。ただし、生地はミタラシ団子よりだいぶソフトで、よく伸びる。それでも一人前が写真の一皿なので、よほど大量である。これ一皿でずいぶん満腹してしまうが、もとは海水浴の人たちのためのおやつだったそうで、ヴォリュームがあるのはそのためだそうである。写真は異人館ちかく(そこがこの餅の発祥の地という)の平田屋という老舗で、その餅をやっつけているところである。これがなかなか美味しかった。

なんといっても鹿児島のピカイチのお菓子は、この加治木饅頭であろう・・と私は勝手に思っている。ヤワヤワとして、ペトペトとして、上品に甘く、暖かく、薄っぺらく造形してあるので食べやすくもある。私はこれが大好物で鹿児島に行ったら買わずには置かない。
今回の旅でも三軒の加治木饅頭を試みた。そのうちのひとつ岡田商店(加治木駅前)のそれを写真にとった。これもなかなかおいしかったが・・・、

数多い加治木饅頭屋のなかで、私がもっとも愛してやまないのは、この写真の店、すなわち新道屋(しんみちや)のそれである。ここは、毎日午前中で売り切れてしまうので、ホテルから出て、いの一番に買いにいった。そうしたら、もうすでに長い行列ができていて、三十分ほどもまたなければ買えないという盛況であった。新道屋の店は、小さなガラス窓で閉じられ、それが時々開いて、なかからお店の人が顔をだす。そしたら、注文だけして待つ。その間、くだんの注文窓は常にピシャリと閉じられている。まるで売ることを拒否するような風情だが、いやいやそうでない、これは室内の蒸気が逃げて饅頭が乾燥するのを防ぐという目的があって、こういう販売形態になっているよし。しかも「手作りの饅頭が三分に一回、二十個ずつ蒸し上がる」というわけで、じっくりとまたなくてはならない。なにごとも忍耐である。
私も列にならんで待つこと三十分、やっと自分の番になったので、十五個買った。うちは大家族なので、このくらい買わないと追いつかない。
出てきた饅頭は蒸したてとあって、手に持てないほど熱い。これをエイヤッとかばんに入れて、それから夕方まであたりを逍遥し、東京に着いたのがおよそ六時半、それから家に辿り着いたのは八時半になっていたが、なんとまだ饅頭は幽かに温かった。さっそく包を開いて舌鼓を打った。いやあ、うまい!
これは東京では絶対に買えないもので、鹿児島の加治木に行って、新道屋の店頭に午前十一時前には行って、行列して、忍耐して、やっと買えるのだ。しかしそれだけの努力と忍耐をする価値はたしかにある。それほどの美味であり、なおかつ一個が90円という安さで、じつにどうも結構至極である。
もし鹿児島に旅行をなさったら、ぜひこの新道屋の加治木饅頭を求めて食べてご覧になるがよい。なお、十五個買った饅頭は、家に帰った途端に、私は二個平らげ、娘婿も、妻も、みな二個ずつぺろりと食べてしまったので、即座に半分なくなってしまった。

それから、飛行機の時間まで、加治木、隼人、霧島のあたりをぶらぶらと当てもないドライブをした。
紅葉には少し早かったが、気候はよし、風景もなかなかのもので、束の間ながら、愉しいドライブだった。
途中、犬飼の滝というのに遭遇したが、どうしてどうして、立派な瀑布で、水量といい落差といい、一級品の滝であった。

2014年10月8日水曜日

飯田へ講演に

木曽の御嶽山が噴火をして大きな被害が出たことは、まことに心が痛むが、その御嶽も遠からぬ飯田へ4日に講演に行ってきた。
もしかして火山灰など降っていはせぬかと案じたが、風向きの加減か、この町にはとくに火山灰の被害などはないということであった。
講演は、源氏物語の世界を語るということで、予定の時間を若干オーバーして、二時間十分に亘って一生懸命話してきた。聴衆はとても熱心で、長い講演時間にもかかわらず、一心に耳を傾けてくださった。飯田は文学の盛んな土地柄らしく、もう長いこと続いている読書会の方々などがずいぶん聴きに来てくださったらしい。ありがたいことである。
講演に先立って、午前中に少し時間があったので、例によって車を駆って近在を見物して回った。そしたら、南原橋という高架橋にゆきあい、そこからは天竜峡が絵のように見事に見渡された。さっそく車を路傍に駐めて写真を撮りに歩いて戻ったが、いざ橋の真ん中まで行くと、そのあまりの高さに、高所恐怖症の著しい私はとても橋の欄干のところまでは近づくことができず、へっぴり腰になってすこし欄干から離れたところで写真を撮った。
なんでもこの辺りでは一番の高架橋で、年に何人も身投げをする人があるのだとか、後で聞いた。

2014年9月28日日曜日

ガーデニングの国

ご案内のように、イギリスはガーデニングの天国で、家々の庭が、たいてい美しくガーデニングされている。それは良識ある市民の義務のようなものかもしれない。そうやって、自分の家を美しく作庭すること、その庭が連なって一つの街の景観を構成することから思えば、おのれの家の庭を荒れたままにしておくというのは、市民としての怠慢だと言わざるを得ぬ。事実これが、貧しい人たちの住む区域に入るととたんに庭が荒れ、市街の景観も荒涼としてくるのがわかる。
さて、この写真は、私が第二の故郷の家、ヘミングフォード・グレイのボストン夫人のマナハウスのお庭である。現在は、故ルーシー・ボストンの子息故ピーター・ボストン夫人であるダイアナさんが、一人この古い邸を守っている。五千坪からあるお庭を、このように美しく保つのは並大抵の仕事ではないが、今も四方のお庭は、このように見事に管理されているのは、ほんとうに頭がさがる。
イギリスに旅行の折に、ぜひここを訪れてみたいという人は、必ず前もってのアポイントメントが必要なので、次のホームページを参照していただきたい。
 http://www.greenknowe.co.uk/index.html



さてこちらのお庭は、私がケンブリッジに滞在するときの定宿となっている、ガートンのLIBRE HOUSEの庭である。ここは、Jill & Peter Free 夫妻の自宅でもあり、その広々とした庭の一角に、母屋に接続したアネックスが建てられてあって、そこがホリデイハウスとして提供されているのである。おおかた十二畳くらいのベッドルームと、6畳くらいのLDK,それにトイレ、シャワーなどが設備され、コンパクトにまとまったキッチンには洗濯機や電気クッカーが組み込まれ、また電子レンジ、高速Wi-Fiその他ひと通りの生活用品が備わる。それで、(季節によって多少変わると思うけれど)一週間で300ポンド(約五万円)くらいのリーズナブルな家賃(駐車は無料)なので、ほんとうに助かるのである。ロンドンでは、つまらないホリデイ・インの狭苦しいツインの部屋でさえ、一泊200ポンドもふんだくるのにくらべたら、まるで天国である。そして、このフリー夫妻の、ほんとうに誠実で優しいお人柄にも惹かれて、私はケンブリッジではつねにこの家を拝借してゆうゆうと暮らすことにしている。この家の庭も美しくガーデニングされているので、四季折々の風景を楽しむことができる。

ああケンブリッジ!

ロンドンから、ほうほうの体でケンブリッジに到着すると、そこは懐かしくて静かで、アカデミックで、気持ちのよい空気が横溢して、なんともいえない快さを感じた。この背後の高い塔の建物は、ケンブリッジ大学図書館の正面である。この建物こそ、私が三十代に力を尽くして『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』の編述にあたった、思い出の場所である。建物はまったく変わりなくそこに同じように建っていたが、なかは相当に模様替えになっていて、ちょっと面食らうこともあった。だいいち、トイレの水洗が「手かざしリモコン」になっていたのはびっくりした。ただし、もちろんウォシュレットのような仕掛けはありはしなかったが・・・。

ケンブリッジでは、市の中心からすこし離れた、Girton(ガートン)という村に宿るのを常としている。この写真は、そのガートンから市内のほうを遠く望んだもので、この道はHuntingdon Road(ハンティンドン・ロード)と呼ばれる。ちょうど、イギリスの秋らしい霧が立って、向こうの方はすこしぼんやりと霞んで見える。樹々はもう黄葉して、いちだんと瞑想的な雰囲気が感じられる。

2014年9月27日土曜日

ロンドンの光と闇

 フィンランドでの仕事を無事終えて、ヘルシンキのぶらぶら散歩も終えて、ロンドンに行った。数年ぶりのロンドンは、またもやかなり様変わりしていた。おそらくオリンピックをはさんでの変化が相当に大きかったのであろう。
まず第一に、かつては真っ黒に汚れ、荒れ果てて、それこそ荒涼たる区域だったsouthwarkの周辺がすっかりリノベーションをされて、面目を一新したのはいいけれど、なんだか薄っぺらい観光エリアになってしまい、ロンドンらしい「闇」が消えてしまったのは、いかにも残念。この写真は、旧市場の建物だが、私が三十年前にここらを歩いていたときは、ほんとに切り裂きジャックでも出てきそうな物騒なところであったし、その先の有名なパブ「The Anchor」も、十九世紀の昔のままでまことに好ましかったものが、今は、すっかりのっぺりした観光客相手のスポットになり、まるで趣をなくしてしまっていた。その一方で、この写真の後ろに写っている硝子張りの阿呆なデザインのビルのような、いわゆるポストモダンの、建築家の頭の悪さと趣味のなさが露見しているような愚劣なビルがあちこちに建っているのはあきれ果てた。この硝子ビルなど、上に行くほど面積がゼロに近くなるので、何のために建てたのか意図が知れぬ。また別の「有機的デザイン」の硝子ビルは、ちょうどそれが集光器の形になって、そのビルの下に車を駐めておくと、太陽光が集中して塗装が焼けて溶けてしまうという、大問題を引き起こしてロンドナーの失笑を買っているらしい。建築家の愚かな趣味と施主の無定見は、なにもわが東京の新国立競技場だけのことではないのである。
さるなかに、この「ロッホファイン」というスコットランドの鮮魚をメインとするレストランは、シティの只中にあって、結構な美味しさであった。しかも、イギリスのレストランとしては、例外的にポーションが小さく、われわれ日本人の口にも合いやすい。私はスコティッシュスモークサーモンを頼んだが、なんと「刺身風」とあって、刺身のように切った脇にわさびと醤油がついてきた。これで銀シャリがあれば申し分なかったが・・・。