2018年4月26日木曜日
大伴家持の旅
4月22日に、富山の高志の国文学館の招きで講演に行ってきた。高志の国というのは、「越の国」で、つまり越前・越中・越後を総称しての「越の国」の「越」の万葉仮名表記である。現在の富山は、昔の越中で、そのなかでも、いまは高岡市に属するところに、万葉集時代の越中国司が置かれていた。
この国衙は、今の小矢部川・・・昔の射水川の左岸にあったが、大伴家持は、三十代の時分に越中国司としてこの地に単身赴任していたのである。
その時代に夥しい歌を詠んで、多くが万葉集に収載されている。私自身は家持の専門家でもなんでもないが、万葉集については、むかしいくらか勉強したこともあるので、今回は、万葉集のなかから、すべての家持の歌を読み直して、そのうち私が興味を引かれる歌どもを選び出してあれこれ話をした。
講演に先立って、前日富山に入ったので、さっそくにその国衙のあったところの探索を試みた。そこは今勝興寺という大きなお寺になっていて、写真はその本堂で写した。この寺は江戸時代寛政年間の建立なので、江戸時代らしい建物ゆえ、万葉時代の風情は残っていない。ただ、それでも、むかしこの辺りに建っていた国衙に家持がいて、射水川のあたりを逍遥したであろうと思うと、不思議に懐かしい気がした。
講演はおかげさまで超満員の盛況で、大碩学中西進館長や畏友北山吉明ドクター御夫妻もお聴き下さるなか、まあ楽しく100分ほど話してきた。
講演の後、金沢に北山ドクターと連れ立って戻り、その夜は金沢モリスハウスで、デュオ・ドットラーレの練習に励んだというわけである。
2018年4月1日日曜日
悲歌集、六度目の公演
いやはや、皆様また長いこと更新をせずにおりましたこと、心よりおわび申し上げます。
言い訳ではないのですが、じつは三月初旬にかなり重症の帯状疱疹を発症して、ひたすらその闘病に明け暮れておりました。ともかく痛みがひどいので、なかなか仕事もできず、当面の仕事はすべてキャンセルさせてもらって、楽しみにしていた句会も三月は休会とし、ひたすら養生の日々でした。
おかげさまで、皮膚の症状はもう治りましたが、後遺症の神経の痛みがひどくて、この対策に追われています。とはいえ、いちおう元気になって、仕事はすべて再開しました。
ただ、『(改訂新修)謹訳源氏物語』の文庫版の第六巻は、ほんとうは4月刊行の予定でしたが、この病気でままならず、一ヶ月延期して五月の刊行となりましたことを、お詫びかたがたお知らせいたします。
さて、きのうは、武蔵小金井の宮地楽器ホール(小金井市民交流センター)大ホールにおいて、十年前に制作した演劇的組歌曲『悲歌集』(野平一郎作曲)が六回目の上演となりました。演奏メンバーは初演の津田ホール(本作はもともと津田ホールの委嘱作品)以来一貫して変わらず、テノール望月哲也、メゾソプラノ林美智子、ギター福田進一、フルート佐久間由美子、といずれ劣らぬヴィルトゥオーゾ揃い。なにしろこの曲は、演奏がきわめて難しい超絶技巧作品で、そうそう誰にでもできるというものではありません。その名手たちが、今回六回目とあって、習熟を重ねた結果、作品解釈もいよいよ深まり、演奏は見事ですこぶる聞き応えがあり、演奏会として大成功であったと思います。
また特筆すべきことは、この宮地楽器ホールのきわめて優れた音響で、歌い手は楽々と響かせて歌うことができるため疲れず、ギターのような繊細な楽器も見事に響かせてくっきりと聞かせてくれます。フルートもソフトな響きを聞かせて余蘊なく、しかも歌の言葉は明瞭に聞き取れる、という恐らく声楽コンサート会場としては、日本屈指のホールであることを実感した一日でした。
写真は、終演後同ホールにおいて撮影した記念写真で、左から、望月哲也、私、福田進一、野平一郎、林美智子、佐久間由美子と作者と演奏者の面々、そして右端はこの作品を最初に委嘱してくれた旧津田ホールの楠瀬壽賀子さん。
2018年2月19日月曜日
憧れのハワイ航路
かねて私どもが愛唱また熱唱を続けている名曲『憧れのハワイ航路』であるが、このほど、そのオリジナル楽譜を入手することを得た。
どうです、この情緒あふれる表紙の絵!
だいたい、この時代は、カラオケなどはなかったため、流行歌もレコードと一緒にこういうピアノ伴奏つき(多くはハーモニカの数字譜も併載)楽譜が出版されるのが常であった。そうして、ピアノの伴奏を、だれかにしてもらって、カラオケのようにして歌ったのであろう。
その古典的な流行歌楽譜を、私は愛好すること啻ならず、見出すに従って買い求め、もう随分のコレクションになった。
そんな蒐集品のなかでも、これはまたとくに愛すべきデザインの一点として特筆したい。この表紙絵の画家は「Kiyoshi」とサインがあるが、これは画風から推定するに、おそらく、この時代に挿し絵画家として多くの作品を残した高木清ではないかと思われる。英字のサインの下に「木」かと読める朱印が捺してあるのも、その一傍証であるが、はたして正解であるか否か、博雅の君子の示教を得たい。
この時代のハワイへの憧れは、現代とは比較にならぬ。まだハワイ航路は就航していなかったので、ほんとうに「憧れ」に過ぎなかったのである。そしてこの豊満なるハワイ美人の蠱惑的なること、魂が引き寄せられるではないか。
しかも、この楽譜の刊行年月日を見て驚いた。昭和24年2月20日、とある。すなわち、私の誕生日そのものである。なんだか因縁深いものを感じて、愛着もひときわである。
2018年2月17日土曜日
阿川佐和子さんと
二月十六日の夕方、東京エフエムの「キュレーターズ」というトーク番組の収録にでかけた。今回は、私がとくにお願いして、阿川佐和子さんとの御対面が初めて実現したというわけである。
この写真は、どういうわけか、私はばかにおっかない表情で写っているけれど、これでも写してもらったときはにこやかにしたつもりであった・・・。ま、緊張しているのであろうか・・・。
さて、この番組は、三月の日曜に、三回にわたって放送する予定で、その三回分をいっぺんに収録したのである。内容は、ほんとに興に任せての談論風発というか、古典の話、イギリスの話、家族の話と、話題は転々として愉快な対話であった。
阿川さんとは、いままでとかく予定が合わなかったりして、仕事でお目にかかる機会を得なかったのだが、今回やっとそれが実現したのは嬉しい限り。じっさいに会ってお話しなどすると、まことにあのテレビで見るのと同じように気さくで、とても朗らかな話しやすい方であった。そのせいで、私もすっかり調子にのって、ついつい馬鹿話をしてしまったが、これも聞き上手の阿川さんのお力というものであろう。阿川さんの、温かなお人柄にあらためて感銘した次第である。彼女が手にしているのは、このほど大石静さんと共著で出された『オンナの奥義』という新著だが、これは「女子会的対話」の集大成ともいうべき、愉快かつ興味津々たる本で、私も一読大いに頤を解くとともに、「おんなごころ」について深く勉強させていただいたところである。じつに面白い本なので、ぜひ皆様にも御一読をお勧めしたい。また私が手にしているのは、このほど刊行になった『(改訂新修)謹訳源氏物語』文庫版第五巻である。こちらも、いよいよ源氏物語も佳境で、面白い巻ゆえ、ぜひご高覧のほど。
2018年1月22日月曜日
大雪の夜
本州南岸を低気圧が通過し、日本海方面にシベリア寒気団が居座っているという状態のときには、東京にも大雪がふる。
思い出すのは、四年ほど前のバレンタインの夜、その夜は一日じゅう降り続いた雪が夜に入ってもやまず、東京としては異例の大雪になって、交通は大混乱となった。
その時と寸分違わぬような気圧配置になり、きょうは朝から小金井あたりはすっかり雪で、夜になるころには、もう三十センチないし深いところでは四十センチも積ったかというくらいの、とんでもない大雪になった。
明日はよりにもよって、東京で一番坂道の多い神楽坂で講演である。聴衆はご高齢のご婦人ばかりなので、万一にも転倒して骨折などということがあってはいけないから、延期したらどうだと主催者に申し入れたが、いまさら周知の方法がないというので、強行するという返事であった。無責任というのはこれであろうと私は思う。
ともあれ、夜になって、突然地震が来たかと思うような轟音とともに、家全体が震動したので、なんだろうと思ったら、屋根の雪が南側のベランダにいちどきに落下したのであった。あー、びっくり。その結果、この写真のように、ベランダはまったく雪に埋もれてしまって、ドアも開かなくなった。小金井にもう五十年も住んでいるが、こんなふうに雪に埋もれたベランダをみるのはこれが初めてである。
雪国の方々のご苦難が偲ばれるが、東京には、除雪車の装備もなく、融雪装置もなく、市役所から除雪に来てくれるでもなく、住民は著しい高齢化で、雪かきをする力もないから、こういう雪がふると小金井あたりでは、だれもが困り果ててしまう。さあ、あすの神楽坂までどうやってでかけるか・・・、ほんとうに、こんなときはぜひ中止にするという責任感が、主催者にはあらまほしい。
2018年1月21日日曜日
栗橋の静御前
きょう、1月21日は、埼玉県久喜市の栗橋宿まで、講演に出かけた。
栗橋で、「文学的存在としての静御前」という話をしてきたのである。
源義経の愛妾であった白拍子静御前の名前はつとに有名であるが、その実、ほんとうのところどんな人であったのかはよく分かっていない。
いちばん史実に近いのは『吾妻鑑』の記述かと思われるが、それとて、鎌倉幕府の意向で編纂された史書だから、いわば頼朝サイドに都合よく書かれているという偏向があるだろうことは容易に想像される。つぎに詳しいのは『義経記』の記述だが、もとよりこの書は、かなり恣意的に脚色された「物語」であって、史的にはとうてい信頼するに足りない。この『吾妻鑑』と『義経記』を比較しながら、さらにそこに、『平家物語』の記述や『徒然草』の伝えるところなどを勘案しつつ、文学史上の静御前について思うところを話してきた。同時に、各地に残る静御前伝説についても、諸書を引きつつ概説したところである。どうして栗橋で静御前なのかというと、静は淡路、奈良、信濃、前橋、などあちこちにその墓と称するものがあって、享年も24ともいい47ともいい、一定しない。そんななかで、栗橋にも静の墓と伝えるものが現存し、口碑では、一旦京都に戻った静は、義経を慕って平泉まで行こうとしたが、栗橋まで来たときに義経の自害破滅を知り、絶望してここで病没したというのである。そんなことで、町おこしの一環として、おおいに静に注目しようというので、私がその文学側からの実際をお話しすることにしたのである。
栗橋イリスという会場はほとんど満席で、熱気あふれる聴衆を前に、いろいろ詳しくお話しをした。写真は、栗橋駅前にある静の墓所といわれるところで、ちょっと顔看板の写真を撮ってきたのだが、義経とは似ても似つかぬ顔にて、まことに恐縮の次第である。
2018年1月7日日曜日
風邪ひき
『風邪はひかぬにこしたことはない』(ちくま文庫)という本を書いたくらいで、日頃から、なんとして風邪をひかずにすませるかということに、並々ならぬ熱情を注いでいるにもかかわらず、本欄の「クリスマス」を書いた翌日、すなわち12月27日から、突如として風邪に掴まってしまった。じつに不覚である。不覚であるが、どこでどう移されたものか、皆目見当が付かぬから弱る。
咽喉が痛み、やがて全身の倦怠感に及び、微熱が出て、鼻がつまり、さらには頭痛がしたり、食欲不振になったり、まことにご定法どおりの風邪で、転々と症状は入れ替わるのであった。風邪に根本的な治療薬はないから、私はもっぱら天津感冒片などの漢方を以て、これに応戦したが、それもそうそう効果が実感できるほどでもない。ただ、私は喘息を持っている関係で、気管支に入ってしまうと大変なので、そこは呼吸器科の主治医の教えに従って、きちんと吸入を継続したので、ついにひどい気管支の咳にはならないまま、やっと治ってきた。ほぼ収束してきたかなあと思えたのは、じつに7日、すなわち今日であるから、発病から十日間の苦難の道であった。
この間、すべての予定はキャンセルして、ひたすら養生していたせいで、なにもかも予定は大狂い、これからその遅れた分を取り戻すべく、頑張らなくてはならぬ。
しかし、風邪というものは迷惑だ。迷惑だが、まあメリットもないではないので、『風邪の効用』という本を一読したところ、風邪を引くと血管が軟化し、従って血圧が下るという記事があった。さっそく試しに測ってみると、たしかに上下とも10くらいは下っているのはじつに不思議である。
とはいえしかし、やっぱり風邪はひかぬに越したことはないように思われる。
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